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七月七日、雨

「これはちょっと理論的におかしいんじゃないか?」
 彼がふいにひそめた声でささやきかけてきたので、僕は彼の口もとに耳を寄せて声を拾った。
 少し強めの雨が降っているから、音が聴こえにくかった。
 僕たちはシャッターの下りた洋品店の軒先で雨宿りをしていた。雨はさきほど急に降り出したところだった。今日は土曜日で、恒例のSOS団市内探索が行われており、僕と彼とが現在ふたりきりなのは、たまたまクジで同じチームを引き当てたためだった。
 朝から重い曇天だったが、天気予報では降るとは言っていなかった。僕も彼も傘を持っておらず、とっさに近くの軒先へ逃げ込んだものの、この雨がいつやむのかわからない。少し待てばいい話なのか、それともどこかで傘を買わなければならないのか。
 すぐには判断ができず、僕らは並んでぼんやりと空を見上げていた。
 そこへ聴こえてきたのがさきほどの彼の言葉だった。
「理論的におかしい、とは?」
「ハルヒだよ」
 ぶっきらぼうに彼は答えた。
「あいつしょうこりもなく俺たちに短冊を書かせただろう。今年も織姫彦星に願い事をしようってんなら、空が晴れてないと話にならんと思うのは気のせいか?」
「ああ、なるほど」
 彼の言わんとすることがやっとわかった。僕は首を傾げて少し考えた。
 確かに今日は七夕で、涼宮さんは去年と同様、僕らに笹にくくりつけるための短冊を書かせた。去年の涼宮さんの言によると、地球からそれぞれ二十五光年と十六光年離れているそれらの星に願い事が届くには、やはり二十五年と十六年かかるのだという。
「ですが涼宮さんは、情報伝達のスピードは光速を超えないと言っただけで、その情報が可視光の波長の光として伝わる必要はありません。ですから雨は必ずしも願い事の伝達の障壁とはならず、涼宮さんもその無意識の力によって無理に雨雲を散らす理由はないということになります」
 これ以上ないほど理路整然と説明したつもりだったのだが、なぜか彼は顔をしかめて僕を見た。
「これだから理系の理屈っぽい男は嫌なんだ」
「論破されたからといって、やつあたりをされても困りますよ」
 僕は平然と言って、笑った。
「なんでしたらもっと理屈っぽいことを聞かせてさしあげましょうか。涼宮さんは情報伝達の速度の上限は光速だとお考えのようですが、量子コンピュータの原理でもある量子スピンのもつれを利用すれば、情報の伝達速度は理論上無限大にすることができます。相手がベガだろうがアルタイルだろうが、瞬時に願い事を送り届けられるというわけです。涼宮さんがこのことに気づけば、悠長に何年後などと言うまでもなく、即座に短冊に書いたことが実現するかもしれませんね」
 彼は半分口を開けて、ぽかんと僕を見つめた。僕の説明が半分も理解できたか怪しい様子だったが、彼は難解な理論の筋道を全部投げ捨て、その本質の部分だけを掴み取ることの名人だ。彼は雨粒の落ちてくる暗い空を見上げると、小さくため息をつき、ぱしんと自分の片頬を手のひらで叩いた。
「……勘弁してくれ。去年あいつが短冊に何を書いたか、おまえも覚えてるだろうが」
 残念ながら覚えていた。一枚が『世界があたしを中心に回るようにせよ』、もう一枚が『地球の自転を逆回転にしてほしい』だ。
「片方はすでに叶っているとも言えますから、もしかしたら涼宮さんの願いは時間をさかのぼって四年ほど前のベガとアルタイルに届いたのかもしれません。だとしたら、地球の自転のほうもすでに逆回転になってしまっているのかもしれませんね、僕らが気づかないうちに」
「次から次へと悪い想像ばかりするのはよしてくれ」
「そんなに悪い想像でもないと思いますが」
 僕はそれを本気で言った。この一年と少しのあいだに、僕もずいぶん涼宮さんを信頼するようになってきている。涼宮さんが案外常識のある人だとは直接対面する前から知っていたことだが、それに加えて最近では彼女もずいぶん成長し、温和になった。
 彼女が願望を実現させる力をいまだに保持しているのであっても、その願望自体がすでに世界を滅ぼすようなものとはかけはなれてきている。
 それが証拠に。
 僕は思わずくすりと笑みをこぼした。
「今年の彼女の短冊をあなたも見たでしょう。あれが今すぐ実現したって、僕はいっこうにかまいませんよ」
「あれは願い事じゃない、宣言だ」
 彼は憮然として言ったが、その口もとがゆるやかな微笑の形を作っていた。
「それにあれは今すぐじゃ意味がないだろう。やっぱり十六年とか二十五年とか経ってからじゃないと」
「そうですね。では彼女がそのときまで、光の速さに絶対的な信頼を抱きつづけてくれることを祈りましょう」
 僕はそう言いながら、本当は、彼女の願望実現能力などは、この願い事に関する限り必要ないのだとわかっていた。
「あ」
 ふいに彼が小さな声を上げた。空を見上げている顔が明るい光を反射している。僕もまたつられて空を見上げる。雨が上がりかけ、太陽が雲間からうっすらと顔をのぞかせている。
 これが涼宮さんが望んだための現象であるのか否か、そんなことはどうでもいい。
 今年、彼女が書いた短冊は一枚きりだった。
『SOS団全員で、部室で同窓会をします!』
 そう書かれた筆致は力強く、織姫や彦星の助力も、それ以外のいかなる特殊な力も最初から必要としていなかった。
 彼女が願うとおりに僕たちは、世界中のどこからでも、いかなる万難を排しても、その場所に集うことだろう。十六年後か二十五年後か、あるいは明日明後日に。

[20080707]