十度目の正直
はぁ、とこぼれた彼の吐息の熱さに瞠目している余裕は正直なかった。
「もういい、ですか?」
尋ねながら僕はきょろきょろとあたりを見回した。ちなみにここは僕の部屋だ。土曜の晩で、彼は泊まっていく予定になっている。真夜中にはまだ遠い時間だが、そこそこ防音の効いた室内には外の物音が入ってこない。とても静かだ。部屋の明かりは幾分落としてあるが、真っ暗ではない。
何か突発的なできごとが発生したときに、すぐに対処ができるようにという配慮の結果だ。
僕の身体の下であられもない姿をさらしている彼は、僕のシャツの襟首を掴み、どこか怒気を孕んだ声でこう言った。
「いいから、早く、しろっ!」
ああこれが欲情で濡れた必死の懇願だったなら、どんなに僕はときめいたことだろうか。
彼が僕を急かすのには理由がある。それはもちろん彼が僕のテクニックに陥落し、ほしくてたまらなくなっているからというような色っぽいものでは決してない。そもそも僕たちはまだその「行為」を最後まで達成できたことがなく、いいも悪いもすべてが未知数で手探りだ。
しかしとにかくやるしかない。
思わぬ邪魔が入る前に。何より肝心なのはこの一点だ。
なぜなら僕たちは、今日に至るまでに実に九度にわたって失敗をくりかえしているからだ。
僕はごくりと唾を飲み、深呼吸をした。大丈夫。大丈夫だ、今度こそ。
やれる、はずだ。
一番最初に僕たちが、「セックスしよう」ということになった話の流れは、ひどく陳腐なものだった。僕は彼が好きだった。そして驚いたことに彼も僕が好きだった。それがいったん発覚してしまったからには、僕たちに「しない」という選択肢はなかった。
もちろん悩ましいことも多々あった。僕たちが男同士だという事実は涼宮さんに対する深い罪悪感の前では些細なことにすぎなかったが、この強い禁忌の感覚ですら僕たちを止めることができなかったのだから、もはや手の打ちようがない。
僕たちは文字通り僕の部屋へ転がり込み、互いにめちゃくちゃな手順で服を脱がせあったりキスをしたり腰をこすりつけたり靴を脱いだり足を踏みつけて怒られたり電気を消そうと焦ったりローテーブルにつまずいて痛い目にあったりした。
正直に告白しよう。僕は初めてだったのだ。
誰かと肌を合わせようとするのは、男女を問わず、彼が最初だった。知識はあったし、欲求もあったが、これまではその機会と時間がなく、また適切な相手がいなかった。
彼が果たして適切な相手かというと否定しないわけにはいかないが、少なくとも彼は僕がこれまでの人生の中で一番好きになった人だった。
わけがわからないままに事態はどんどん進行し、気がつくと僕は彼をベッドの上に押さえつけていた。彼は熱のこもった目で僕を見上げ、僕はほとんどふるえそうになりながら、彼の片足を持ち上げた。
そのときだった。
ふいに室内に響き渡った携帯電話の着信音に、僕は思わず動きを止め、彼はびくっと身体をふるわせた。
僕の携帯だった。なにもこんなときに無理に電話をとる必要はないはずだが、それ以前に僕は、その着信が何を知らせるものかわかってしまった。
閉鎖空間が発生していた。
僕の顔色からそれがわかったのだろう、彼はみるみる心配そうな顔になり、腕を伸ばして僕の頭をそっと撫でた。
「……行ってきて、いいぞ」
そのときの僕に、うなずく以外の何ができただろう。
しかしなんというバッドタイミング。まさか涼宮さんは無意識のうちの超感覚で僕たちが不埒な行為に及ぼうとしていることを察知したのだろうか。
「そんなわけがあるか」
彼はあきれた顔で僕の懸念を一蹴し、僕の肩をぐいぐい押した。僕は仕方なくベッドを抜け出した。
「今日は…」
「帰る。晩飯家で食う」
急に現実に帰ってきたみたいな発言だった。ちょっと前までの異様な熱は僕らの両方から失われていた。彼が僕の帰りを待っていてくれるなんてことはありえないのに、僕はその言葉に落胆した。閉鎖空間を消滅させるまでにどれだけの時間がかかるかわからない以上、彼を引き止めるなんてナンセンスでしかない。
「スペアキーを置いていきます。僕は先に行きますから、あなたはこれで鍵をかけて出てください。ああ、鍵はメールボックスの中にでも入れておいてもらえれば…」
僕のほうが衣類の乱れがずっと少なく、それに急いでいたから、この処置は仕方がなかった。彼は僕のベッドの上にのっそりと身を起こし、後ろ髪を撫でつけながら、憂鬱そうにため息をついた。
「そんな、この世の終わりみたいな顔するな」
「え?」
「またすればいいだけの話だろ」
そっけない口調で言いながら、彼の視線は僕から思い切りそらされているし、見ているうちに次第に頬が赤らんでくる。
じわじわと嬉しさがこみあげて、たまらなくなった。
「言いましたね? 絶対ですよ。約束ですからね」
「くどいな!」
僕は浮かれた気分で彼の頬に唇でふれ、それから閉鎖空間へと向かった。すべてが終わって帰宅したときには誰もいない部屋に少しさびしい気持ちになったが、彼の約束を思い出すと何もかもがどうでもよくなった。
これが最後ではないのだ。
次はもっと心に余裕を持ってことに挑めるだろう。そう無邪気に信じることのできた僕は、まだまだ考えが甘かったのだが、このときはそんなことなど想像できるはずがなかった。
これが一度目の失敗の顛末だ。
ほのめかされ、待ち焦がれた二度目の機会は意外に早く来た。「今日うち、親いないんだ」なんてセリフを彼の口から聴くことになろうとは、本当に夢にも思わなかった。
地に足のつかない思いで僕らは彼の家へ向かった。途中で一緒にコンビニで買い物をした。今晩の夕食を買うだけのつもりだったが、ついでだと思って歯ブラシや替えの下着まで買った。上記のセリフを言われたのが直前だったために、僕はお泊り用のグッズなんて何ひとつ用意していなかったのだ。
しかしその最中に谷口くんや国木田くんといった彼の友人に見つかってしまったのは大いなる誤算だった。彼らは目ざとく僕の買い物カゴの中身に目をつけ、僕が彼の家に泊まりにいこうとしていること、すなわち今彼の家にはご両親と妹さんがいないことを察してしまった。
その後、どうして彼らまでが一緒に泊り込むことになったのか、徹夜のDVD鑑賞会と酒盛りが始まってしまったのか、僕にはちっとも理解できない。
当然そんな状況下では、彼といいムードになることなんて望むべくもなかった。僕らは洗面台のところで隠れてキスだけをして、次こそはと誓い合った。
というわけで二度目のチャンスも見事に潰れ、僕は少々焦りはじめていた。いくら彼から同意を得ているといっても、いつその気が変わらないとも断言できない。だって僕たちの関係は「願望を実現する能力がある」彼女の目を盗んでのものだ。もしも彼女が無意識のうちにでもおかしな気配を察知したら、そのときこの世界はどんなふうに歪められてしまうかわからない。彼女は人の気持ちを踏みにじるようなことはしないと信じたい気持ちはあるが、一方で僕の中には根深い不安がはびこっている。
そもそも最初の失敗のときの閉鎖空間の発生だって、彼女が僕たちの妨害をしようとしたのではないかという疑いがいまだに拭い去れないくらいなのだ。
じりじりと追いつめられていく感覚があり、まずいな、と思った。その頃どういうわけか立て続けに機関からの呼び出しがあったり、彼のほうで用事があったりして、ふたりきりになれる時間がとれなかったことも僕を思い煩わせた。
だからといって、部室の長机の上に彼を押し倒したのは、我ながら短慮だったと思うけれども。
女性たち三人はその日先に帰ってしまっていた。ひとつしかない扉の鍵は内側からかけた。これで滅多なことでは邪魔が入らないと踏んだのだったが、肝心の彼に抵抗されたのはショックだった。
「アホか、おまえここをどこだと……!」
非難する声の響きまで甘く聞こえるというのは僕の頭がどこかおかしくなっていたことの証明だったかもしれない。だけど彼の抵抗は本気のものとは思えないほど弱かったし、ちゃんと気持ちよさも感じているようだった。廊下や隣の部屋に声が漏れないように気をつけながら、もう一声というところまでようやくたどりついた。
そのときだ。
電話の呼び出しくらいなら、どれだけしつこく鳴っても無視する覚悟はできていたが、さすがに予想外のできごとが起きた。
鼓膜が破れそうな騒々しさで校舎中に鳴り響いたのは、どう聴いても火災報知器の音だった。
こんなの誤作動に決まっている、それか誰かのいたずらだ。
と、居直って無視できるほどには僕は豪胆ではなかった。
にわかに騒々しくなった周囲の物音と、避難を呼びかける校内放送を聞きながら、僕たちは茫然と見つめあい、それからがっくりと肩を落とした。
「……まあ、なんだな。最初くらいはもっと落ち着いたところがいいな」
彼のそのつぶやきはもしかしたら僕を慰めるつもりのものだったのかもしれない。
情けない失敗のこれが三度目であり、世に言う「三度目の正直」は見事に裏切られた形となった。
さてそろそろ話を先へ進めよう。それから先も幾度となく、僕たちの「初めて」は妨害されつづけた。彼が急な腹痛を訴えたこともあったし、疲労が蓄積しすぎて僕のほうが眠ってしまったこともあったし、未来からの呼び出しもあれば、隣の家にトラックが突っ込んできたこともあった。巨大隕石が落ちてきたりしないのが逆にふしぎなくらいだった。
そろそろ初心に立ち返り、この異常なすべての展開は、神にも等しい力を持つ彼女の采配ではないかと疑いたい気持ちになったが、それを実証する術はなく、直接彼女に心当たりはないかと尋ねてみることもできない。
もう僕は一生彼とそれをすることはできないのではないかと、最近では半ばあきらめかけていた。
そんな折、彼からこの週末に泊まりにいっていいかと訊かれた。もちろんいいに決まっているが、今度はいかなる種類の妨害が入るのだろうかと気が気でならない。思い起こせばなんとこれは十回目のチャンスだった。つまりこれまで九回にわたって失敗してきているわけだ。
彼のあられのない姿なんてもう見飽きていると言ってもいいくらいだが、決定的なところへは絶対にたどりつけない運命が僕らには与えられているのに違いない。
あたりは静かだ。特に変わった気配は感じられない。国営放送の集金人がしつこいくらいにベルを鳴らして、玄関口でくどくど十五分も長話したりしないし、近くで通り魔事件があったといって警官が訪ねてくることもない。突然エアコンが火を噴いたり、上の階から水が漏れてきて大変なことになったりもしない。
今度はどんな予想外の方向から突発自体が起こるのだろうか。
僕が疑心暗鬼に駆られる一方、彼のほうでもいい加減、この中途半端な状態にけりをつけたいのだろう、早くしろととにかく僕を急かそうとする。その気持ちはわからなくもない。ちょっとまだ準備が足りない気もするが、妨害が入る前に速攻で既成事実を作ってしまうというのはいい方法だ。
「力を抜いてくださいね」
覚悟を決めてささやきかけた。彼はやはり怖いのか、ぎゅっと目を閉じて枕を掴んでいる。僕は彼の両足を抱え上げ……………。
そして、言った。
「……すみません、どうやら緊張のあまり、あの……」
自分がプレッシャーに弱い性質であることを、このときほど深く呪ったことはなかった。
[20081125]