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1m

 いつもの帰宅の光景が、今日も展開されている。1mほど離れて先を涼宮さんと朝比奈さんと長門さんが歩き、あとから僕と彼とがついて行く。女性たちの会話はにぎやかなものだが、僕たちのあいだにあまり話ははずまない。
 空模様は少し怪しい。ぽつりぽつりと、ときおり小さな水滴が空の高いところから落ちてきて、頬や手の甲にわずかな圧力を与える。
「朝の予報では降らないということだったのですが、外れたようですね」
「まあこんくらいなら傘もいらねえだろ」
 空模様を見上げながら彼が面倒くさそうに答える。案外、どんなつまらない話題にも無視をしないで返事をくれるのが彼という人物だ。
「一応折り畳みは持ってきましたが……ああ、少し強くなってきたようですよ」
 さっと風に流されるようにして薄い雨のベールが降りたった。僕は慌てて傘を広げる。涼宮さんたちもきゃあきゃあ言いながら慌てて傘の用意をしている。
「俺持ってきてないぞ」
 ぶつぶつとぼやく、彼の声の響きを最後まで聞いたかどうかというところで突如それはやってきた。
 すさまじい豪雨だった。
 僕はとっさにかたわらの彼に、手にした傘をさしかけた。いわゆる相合い傘というやつだが、それを恥ずかしがったり気にしたりしている余裕はどこにもない。これはまさに緊急事態というやつだ。
 上空のどこにこんなにも隠されていたのかと思うくらいに大量の水が叩きつける勢いで降っていた。バケツをひっくり返したなんていう表現じゃぬるい。プールか湖をひっくり返したくらいと言ってちょうどというところだろう。
 ここまで激しい豪雨を僕はこれまで経験したことがなかった。たよりなくふるえる折り畳みの傘の縁からほんの1m先の景色がもう見えない。ごく近くにいるはずの涼宮さんたちの姿も声も、気配もまったく捉えることができない。
 世界はいびつに丸くて狭い空間に限られて、そこにいるのは僕と彼のふたりきりだ。
 とはいえ傘は完全には雨を遮断しない。なんといっても小さな傘で、そこからはみだした肩は盛大に濡れていたし、地面から跳ね返った雫は腰の辺りまでをびしょびしょにしている。僕たちにできるのは、せいぜい鞄だけでも濡らさぬように、胸のあたりに抱え持ち、身を寄せあうことくらいだ。
「すぐに止むと思いますけど、すごい雨ですね」
 言わずもがなのことを僕は言ったが、彼の耳には届かなかったらしい。きょとんとした顔をした。
 仕方がない。雨音は耳のすぐそばで機関銃を撃ち鳴らしているような激しさで、ほかのすべての物音をかき消してしまうのだ。
「すごい雨ですね」
 もう一度言ってみたが、やはり通じるわけがなかった。彼は口の動きで「聞こえない」と表現すると、僕のほうにぐいと耳をつきだした。
 ごめんなさい、こんな騒音の中でどうしても伝えないといけないような、重大なことを言っていたのではないのです。
 謝ろうかと思ったが、今はそれすら通じない。そしてそんなことより僕は、体温まで伝わりそうな距離に彼と密着して立ち、目の前にむきだしの彼の耳を見下ろしているというこの状況に、よからぬ感情をかきたてられている。
 本当にごめんなさい。
 ちろりと僕は彼の耳の縁を舐めた。彼の身体は飛び上がるようにして反応し、驚愕しきった顔がこちらを向いた。声は伝わらないからなだめるように僕は微笑む。それからキスをする。この雨が止むまで、ふたりきりの閉ざされた世界の中で。

[20070902]