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あくび

 あたたかな部屋の中、ふああと大きく口を開き、のびをすると、目尻にじわりと涙がにじむ。
 ぼやけかけた視界に映るのは、なじみきってありふれたいつものSOS団の部室だ。五人が勢揃いしているのに珍しく静かなのは、ハルヒが何か調べものがあるらしく、真剣な顔つきでパソコンの前に陣取っているからだ。
 長門は今に限った話じゃなく、いてもいなくてもわからないくらいに静かだし、朝比奈さんは今日はメイド服のままでお菓子作りの本らしきものを読みふけっている。もしや近日お茶に合うハンドメイドのお菓子なんかもお披露目していただけるのだろうか。なんたるハートウォーミングなプランであろうか、さすがは朝比奈さん、陰ながら応援していますよ。
 そして俺の正面には古泉があいもかわらぬ無駄なハンサム面を引っさげて、オセロの盤面のむこうに着席しているわけだが。
 ん? なんだってこいつは俺の顔をまじまじと見ていやがるんだ。人があくびをするのが珍しいのか? 誰だって口を開けた瞬間には多少崩れたまぬけ顔になるのは確かだろうが、だからといって面白がって見つめるほどのものだとも思えない。
 第一古泉の表情は、そんな底意地の悪いものじゃなかった。注意深く観察するような、あるいは感慨深く何かを得心するような、そんな視線だ。
 いったいなんだ?
 俺は眉間に皺を寄せつつ古泉をじっと見返した。それに対して古泉は、どこか恥じらうような淡い苦笑を浮かべてみせた。
 ……あ。
 …………ああああ!
 こいつ! なんてことを思い出していやがる!
 古泉の考えていることに察しがついた瞬間に、俺の頭の中は瞬間湯沸かし器の中の水みたいに沸騰した。頬が熱くなるのがわかる。
「……このっ…馬鹿!」
 俺はとっさに立ち上がり、手近にあった雑誌で古泉の頭をばこっと殴った。薄い情報誌だったから大して痛くはなかったはずだ。びっくりして顔を上げたハルヒや朝比奈さんの気配を感じながらも、俺はそちらへ顔を向けずに足早に戸口へ足を進める。
「ちょっと顔洗ってくる!」
 あとの説明は古泉に任せた。そのくらいの責任は取ってもらおう。これだけ恥ずかしい思いを俺にさせたのだからその報いだ。
 しかしそもそもの原因はといえば、やはり俺にあるのだろうな。残念ながらこればかりは否定できない。
 真っ赤になっているであろう頬を押さえながら俺は本当に洗面所に向かって歩いた。ああ信じられん。

「この涙ってやつは勝手に出るものなんだ。痛いからってわけじゃない。あくびのときと同じだ」

 そんな説明を羞恥心のあまり憤死しそうになりながら古泉に対してしたのは何日前のことだっただろうか。あまり思い出したくない。ただあいつがあまりに俺に気をつかいすぎて、痛いんじゃないかとか辛いんじゃないかとか、いちいち俺の涙目を見とがめては逡巡するので、俺はそんな台詞を吐かねばならなくなったのだ。
 だがそのせいで、あくびの涙を見る度、古泉があのときのことを思い出すようになるとはまったく想定外だった。
 俺は壁に頭を打ちつけたくなる衝動と必死で戦いながら心に誓った。
 もう二度と古泉の前であくびはするまいと。

[20071028]