TEXT

Another End


「プールへ行かなかったシークエンスが一度だけある」

 真夜中の駅前広場で長門がそう言ったとき、俺の頭の中にはまざまざと、覚えているはずのない過去のシークエンスの情景が甦った。
 それは、今の俺たちがほんの三日ほど前にすごしたのと何も変わらない(変わるわけない)、暑い暑い夏の一日だった。八月十七日。この時間のループの初日でもある。その日、俺はハルヒに呼び出され、水着やタオルを詰め込んだバッグを肩から下げて、自転車に乗って駅前に向かった。自転車はハルヒのリクエストだったんだ。それは古泉も同じことだった。あいつが自転車を持っていたこと自体俺にとっては意外な気がしたが、あいつはいつもの涼しい笑顔で、ぴかぴかに光る自転車を引き出してきた。まさかそれハルヒに言われて新調したんじゃないだろうな。
 見飽きた顔ぶれの五人がそろって、炎天下に向かうのは市民プールなのだと言う。行ったことがないわけじゃないがずいぶん昔のことだ。それはまあ、それでいいのだが、引っかかるのは俺が長門とハルヒを後ろに乗せて、サーカスの曲芸もどきでひーひー言いながら自転車をこいでいるのに、前方を走る古泉は朝比奈さんを軽やかに乗せて青春タンデムなんかしくさっていることだ。ああ忌々しい、腹が立つ、くそ俺と代われ古泉、俺だって朝比奈さんのたおやかな手できゅっとつかまられてみたい。腰に腕なんかまわされたらもうたまらんね。どんな急坂も新幹線並みのスピードで突っ走ってみせるってものさ。
 しかしそんなハピネスが俺にもたらされるわけはなく、憎たらしいほど清々しい微笑みを浮かべて古泉はちらりとこちらをふりかえり……。
 それが悪かったんじゃないかな。あいつはあのとき、うしろをふりかえったりしちゃいけなかったんだ。俺と目を合わせたりしてる場合じゃなかったんだ。きっと。
 なぜならその直後、古泉の自転車は、ひらひらとした朝比奈さんのスカートを車輪に巻き込んで、ものすごい勢いで転倒しちまったのだ。
 うしろから見ていた俺はぎょっとして息を呑んだし、ハルヒだって小さな悲鳴を上げた。朝比奈さんの細い声が「あああああれえええええ」なんてドップラー効果がかかった救急車のサイレンみたいに響いていた。
 ここで朝比奈さんが怪我などしていたら俺は一生古泉を許さなかったことだろう。しかしある意味感心なことに、奴はどこのオリンピック選手かという身ごなしで空中で体勢を立て直し、吹き飛ばされた朝比奈さんの下にずざっと自らの身体をすべりこませた。
 結構なスピードの出ていた自転車を急停止させ、俺たちは慌てて倒れたまま動かないふたりに駆け寄った。
「朝比奈さん!」
 先に朝比奈さんを助け起こしてしまったことに他意はない。朝比奈さんは古泉の上に乗っかる形でいたわけだからな。軽くゆすると朝比奈さんは、ふわっと意識をはっきりさせた様子で、泣き出しそうな目をして俺を見上げた。
「キョンくん……」
 妖精みたいにふんわりとした白いワンピースに赤黒い汚れがついているのに気づいて俺はぞっとした。
 お怪我を!? このやろう古泉、ただじゃおかないぜ。
 しかしそれは俺の誤解で、真相に気づいた瞬間、俺の顔面はいっそう蒼白になった。
 朝比奈さんを抱え込むように保護していた古泉の右腕。ちょうど朝比奈さんのお体の下敷きになったあたりが大変なことになっていた。具体的な描写は避けたい。何日か肉が食べられなくなっちまいそうだからな。
「古泉!」
 俺が名前を呼ぶと、奴は気丈にもうっすら目を開いて、俺に微笑みかけやがった。おまえのその頑丈な精神力だけは評価してやる。だがこういうときは正直に痛そうな顔をしてくれたほうが俺としては嬉しいんだが。
「救急車!」
 少し離れたところで立ちすくんだようになっているハルヒに俺は叫んだ。その瞬間にハルヒはスイッチが入ったみたいに、怒鳴りつけるような声で119番に電話をし、気を失いそうな朝比奈さんを介抱し、てきぱきと古泉に応急処置を施しはじめた。
 救急車がやってくるまでには10分近くもかかっただろうか。おそろしく長く感じた時間だった。そのあいだに俺は倒れた古泉の自転車を道端に寄せ、俺の分の自転車もそのそばに置いて、ほかには何ひとつ手を出せず、血の気の引いた古泉の顔を見つめていた。
 救急車には五人全員で乗った。あんな状態の古泉を見捨ててプールに行けるほどハルヒが薄情じゃないとわかって俺はほっとした。だがそんなことよりも、今は古泉のことが心配だった。苦しそうに眉をひそめながらも、俺を安心させようとしてなんでもないふりをするあいつが本当に腹立たしかった。

 そんなふうにして始まった何度目かも知れないループは、おそらくただ一度きりの、異端中の異端だったのだろう。古泉の怪我はすぐに治るようなものではなく、かなり長いあいだ入院していたし、ようやく退院してきたときにも、腕にはごついギプスとぐるぐる巻きの包帯のオプションつきで、痛々しいにも程があるありさまだった。
 そんな状態の古泉を放っておいて、自分たちだけが遊びほうけるということにハルヒは抵抗があったらしい。病院に見舞いに行くのも毎日じゃ迷惑だし、あんまり騒ぐわけにもいかない。
 そんなわけで、そのシークエンスにおいては、初日に提示された夏休みのプランはほぼご破算になった。その分俺なんかは毎日を怠惰にすごせてよかった面もあるのだが、ハルヒがそんなのんきな感想を持つはずがない。
 かくてあいつの機嫌は急降下した。古泉だって好きで怪我をしたわけではないのだから、ハルヒはその苛立ちを古泉にぶつけることもできず、ひとりで悶々と夏休みの後半をすごすことになった。
 結果、何が起こったかは想像に難くないだろう。
 閉鎖空間の発生は連日のことだった、らしい。
 らしいというのは俺にはそんな異常を感知する能力はないからで、話は主に古泉から聞いた。あの捨てられた犬みたいな目で見られると、見舞いに行かないでいるのがどうも落ち着かず、俺は気がつくとハルヒたちに黙ってこっそり古泉のところへ通うようになっていた。
 いやこっそりって言うのは変だな。別に隠してたわけじゃないし、隠すようなことでもないだろう。ただ俺は黙っていただけだ。実際、隠さなきゃならないような事態に陥ったのは、夏休みがあと数日で終わろうとする頃だった。
 その頃には俺たちはもう、この二週間がループしていることに気づいていた。ときおり訪れる既視感が俺たちにそれを気づかせた。朝比奈さんは泣き、長門は沈黙、古泉は病院にいて身動きがとれない。となればもうお手上げだ。ハルヒの機嫌は最低最悪で、もはや憂鬱なんてかわいいもんじゃない。間違いなくこのシークエンスは、まもなくリセットされてしまうだろう。
 それがわかっていたから「こう」なったわけじゃないと、俺は弁明させてもらいたい。
 蒸し暑い八月三十一日の晩に古泉の部屋に閉じこもり、ふたりきりでなにやらいかがわしいことに必死になっているというのも、別にやけになったからじゃない。あと少しでこの時間を忘れてしまうのだということが俺は悲しかった。本当に。
 しかしそれを言うと古泉は、なんとも複雑な顔をして、「僕としてはあまりこのシークエンスで確定してほしくはないのですが」とか言いやがるので憎たらしい。
 古泉にとってこの二週間は、腕の怪我は深刻だし、閉鎖空間はひっきりなしだし、機関からは精神的圧力をかけられまくりで、まったく気の休まる暇もなかったのだろう。
「でも」
 と古泉は言って、俺を引き寄せる。俺はおとなしく引き寄せられてやる。くちづけは水っぽく、頭がぐらぐらするような熱を含んでいる。
「このことを覚えていられるのなら、すべてのリスクを背負ってもいいと思っているのも事実です。僕は……」
 そんな泣きそうな顔で告白するのはやめてくれよ。もう大概ほだされすぎだろうってくらいにほだされてるのに、これ以上俺に何をさせたいんだ。
 俺は古泉の肩を押さえて重心をずらす。切羽詰った吐息がこぼれる。こんな甘ったるい声が自分の喉から出るなんて、できれば一生知りたくなかった。
 古泉の怪我を気遣いながらのそれはなかなか難しく、動きがどうしたってぎこちなくなるのは仕方のないことだった。そうでなくてもまだほんの数回、片手で足りるほどの数しかこなしていない。慣れたとはとても言いがたい。
 覚えておこうと俺は思った。
 もし、次のシークエンスで、あるいはもっと先のいつだかに、このことを思い出したらそのときは絶対にリベンジしてやる。絶対だ。
「忘れるなよ」
 キスの合間に俺はささやき、あいつは何も応えなかった。その何もかもをあきらめきったような顔がむかつくんだよ、こういうときに無理をして笑うのは頼むからやめてほしい。
 放っておけなくなるじゃないか。

 真夜中だというのに人通りの絶えない広場の片隅で、俺たち四人は沈黙し、互いの様子を探り合っている。朝比奈さんは泣くばかりだし、長門は相変わらず沈黙だ。いつものぺらぺらうるさいくらいの解説も一通りすんで、今は黙っている古泉は、薄い笑みを顔に貼りつかせたまま、自販機のコーヒー片手にどこかぼんやりしている。
 ふとその視線が上がり、俺を捉える。
 あ、という顔になり、何かを言いかけて口をつぐむ。
 まどろっこしいなと思いつつ、その逡巡が俺にも理解できないではない。
 だがしかし、俺は意外に諦めの悪い男なんだ。おまえみたいにやる前から何もかもをあきらめるのは性に合わない。
 さあ、そんなこんなで俺は思い出してしまったわけだが、おまえはどうする古泉一樹?

[20070904]