かくも世界は美しい
ひび割れていく空を見た記憶はなかった。気がつくと僕はビルの屋上に仰向けになって倒れていた。ちょうど夜明けの時間なのだろう、空はぼんやりとした明るさを湛えはじめている。雲ひとつなくきれいに晴れ上がっている。
ぴくりと指先が動いた。それはなかば以上無意識の、身体的な反応だった。粗いコンクリートを擦るように動いたそれは、わずかな痛みと冷たさを伝えてきた。
冬の夜明けだ。冷えないわけがない。
しかし僕は徐々に意識されていく自らの身体の存在に、むしろ確かな熱を感じた。
僕は生きている。
閉鎖空間の中で起こる破壊はすべてが幻だ。神人によって叩きつぶされたビルも観覧車も信号機も交差点もみんな閉鎖空間の消滅とともにもとの形に復帰する。
それは、そこで戦う能力者たちの身体も同じことだった。
閉鎖空間への侵入と同時にいかなる変換が起こるのかはわからない。それでも、その異空間で負った傷や流れた血は、ビル群の再生と同時にすべてがなかったことになった。ありとあらゆる残酷な苦痛も冷たい恐怖も。
死、すらも。
この身体が何度幻の死を経験しているのか、もはや覚えていない。
普通の人生を送っていたらありえないことだろう。その瞬間の孤独、絶望、痛みや力の抜けていく感覚、それからわずかな安堵と陶酔を僕はくわしく知っている。
疑似体験にすぎないとわかっていても、その苦痛も恐怖も本物だった。望ましいわけがなかったが、確実に復活が約束されていることを知っているだけに、次第に自分が怠惰に無気力になることを止めるのは難しかった。死そのものよりも、僕は自分がそれに慣れ、感覚が摩滅してしまうことのほうを恐れた。
死がその価値を失えば、生もまた同等に無意味なものとなる。
理性ではそうとわかっているのに、すでに僕は自分が生きていることを単純には喜べなくなっている。こうして色彩を取り戻した世界に生還し、いまだ死の淵に首まで浸かっているような心地で空を見上げているような今も。
いっそ閉鎖空間での死が本当のものであったなら、僕はどれだけ気楽でいられただろうか。
コンクリートの上に投げ出されている背中が痛い。風が千のナイフを含んでいるかのごとくに冷たく斬りつけてくる。そうした現状を身体が認識すればするほど、僕は自分が哀れになり、ひどく悲しくなり、視界がふいににじみそうになる。
ああだけど。
ぴくりと僕の意思とは無関係に指先が動く。心臓は規則正しく打ちつづける。ゆっくりと胸から吐き出された呼吸は熱を含んで白い。
僕はまだ死を願うには若すぎる。
ひらけた視界の中では夜明けの空が劇的な変化を見せていた。深く沈んだ暗闇から、この世に存在するすべての色彩をグラデーションにして織り上げた、圧倒的な光の芸術がそこにあった。透明感のある群青から、あらゆる色を内包した純白へと、刻々と移り変わり、ゆたかにうねり、降り注ぐ、光、光、光。
世界はひれ伏すほどに美しい。
僕はこのちっぽけな腕で、この世界を守らなければならない。それは僕が決めたことではなかったけれど、与えられ押しつけられた運命のごとき何かであったけれど、それでもふしぎなことに僕は逃げ出そうとはしなかった。
勝手に鼓動を刻む心臓、勝手に動き出す足や腕に引きずられるようにしながらも、僕は確かに生きており、この世界に属し、所有され、神の理性という役割を汲々として果たしながら、幻の死を何度でもくりかえす。
[20071114]