The Change 2
というわけで閉鎖空間へとやってきた俺たちだった。
場所は梅田駅前ではなかったが、かつて一度体験した、手をつないでの異世界への進入を、今度は自分が先導してやらないといけない。たまたま次元断層の境界が、歩いていけるほどの近所にあったことは幸運のうちに数えていいだろう。しかしだ。
「感覚でわかるはずだと言われたってなあ」
ぼやきたくもなるというものである。教えるとか言ったくせに、古泉の説明は実にわかりにくかった。非常に主観的かつ感覚的だ。これはあれだな、勉強のできる奴ができない奴に教えようとしても、相手が何を理解できないでいるのかちっとも慮れないのと同じことだ。
閉鎖空間への入り方や巨人との戦い方が、超能力が目覚めたのと同時に自動的にわかるようになっていたという人間には、それを言葉で表現することができないのだ。
「ですから、こう、手をのばすと抵抗を感じる場所がありますよね。そこにふれたまま、境界の向こうに飲み込まれていく自分をイメージするんです。これは扉を開けて違う部屋に入っていくというよりは、膨張しつつある巨大な風船に身体がめり込んでいく感覚に近いのではないかと思います」
「わかるか!」
俺は思わず怒鳴りつけた。緊張と焦りで次第にじっとりと汗までかいてきた。なにしろ古泉とは手をつなぎっぱなしで、人目も気になる。悪くしたことに場所は近所のスーパーの真正面だったのだ。夕食の買出しであろう主婦の方々の視線が痛い。
「ではこれではどうでしょう、錘のついた潜水服で、マリアナ海溝深くにもぐっていくときのような……」
「よけいわからん!」
そんなこんなで、この予想外に大変な第一関門を突破するのに十分ほどを要した。何かの拍子でぐにゃりと境界を越えられたときも、俺は自分がどうやったのか理解できなかった。まあいい、二度とはないことだろう。
「それで、あー、もちろんあれをやらないといけないんだろうな」
「無論です」
ビルの屋上から周囲の惨状を見下ろしながら俺はうめいた。俺たちの到着は遅かったから、巨人による破壊はすでに相当進んでいた。なぎ払われてぐちゃぐちゃに崩れ去った高層ビルの残骸があたりをどこの紛争地帯かという荒涼とした有様に変化させている。薄青く輝く巨人には、小さな点にしか見えない赤い玉がいくつかまとわりついている。
俺もあれをやらないといけないというのは理屈ではわかる。
そして、ここでまた古泉のわかりにくいイメージ解説をうんざりするほど拝聴しないといけないということも。
「簡単じゃないですか。自分の内部からあたたかな赤い光が球形に放射されていると思えばいいのです。まさに見たとおりです。その光には質量がないのに圧力はあり、いかなる物理的攻撃も通しません。またあらゆる衝撃を吸収し、内部の重量をゼロにする効果があって、ですね」
「もういい、おまえ黙ってろ」
古泉の話を聞いていると混乱するだけだと判断し、俺はしゃがみこんで耳を押さえた。真剣に思い出そうとする。あのときの古泉はどんなふうだった。最初から最後まで平然とした顔をしてやがったから、本当はこれは疲れる作業ではないのだろう。赤くてぼーっとして、俺はその色からコタツの赤外線ヒーターを思い出したのだった。よし、俺はコタツだ。俺は今コタツになるぞ、コタツ、コタツ、コタツ……。
「あ」
小さく、驚いたような古泉の声がした。
どうだ、ざまあみろ、俺のコタツ作戦の威力を思い知ったか。
目を開くと世界の全体には赤い光のもやがかかっていた。俺がまぬけ面をさらしてこちらを見ている。俺がっていうか中身は古泉なんだが。
しかし赤い玉になるところまでは成功したものの、その先がうまくいかない。俺の身体は数センチ浮き上がったところで不安定に揺れ動き、思いどおりの方向へ進もうとしない。これには困った。
「どうすりゃいいんだ!」
「あなたは僕の説明なんか聞きたくないんじゃなかったんですか」
いっぱしに拗ねたことを言ってそっぽを向いた古泉を、今こそ俺はぶん殴ってやりたかったのだが、あいにく手が届かなかった。そもそも歩けないんだ。これはいっそ転がっていったほうが手っ取り早いというやつだろうか。
「転がったのでは神人の足元に到達するだけでも一苦労ですからね。お勧めしません」
「そんなことはわかってるんだ、だけどな」
コタツは残念ながら宙に浮いたりはしないんだ。俺がこの状態で空をびゅんびゅん飛び回るには、赤く発光しながら空を飛ぶ何かの具体的イメージが必要だ。
「……蛍、とか?」
「赤くない!」
「人魂もどちらかといえば青いイメージですね。セントエルモの火にしても」
「そう思うならわざわざ口にするな」
「これは失礼。しかしながら、僕はその姿になるときに特別赤い色を意識したことはありませんでしたから、この際いっそ、あなたは青い球体を目指してみてはいかがですか」
「おまえの進言は本当ーに役に立たん」
こうなりゃやけだ。俺の発想はこたつに限定されていてもはや動かせそうにない。ならば前代未聞の空飛ぶコタツを目指すしかない。なに、この特大赤外線ヒーター(仮)の効果で俺を囲む空気はこれでもかとあたたまり、自然に浮き上がるはずなんだ。そうだということにしておいてくれ。
必死にイメージを固めようと集中している俺に、古泉はふと歩み寄り両手を広げた。
「色は問題ではありません。形も、宙に浮くことすらも問題ではありません。僕たちがここにいる理由を思い出してください。僕が今のあなたと同じ状況にあるとき、考えていたことはひとつだけでした。僕はここへ来なければいけなかった。呼ばれていると感じていました。何のためかといえば言うまでもなく、あの薄青く光る哀れな巨人を倒すためです。あれは涼宮さんの憂鬱の象徴です。彼女はそれを消してもらいたがっている。自分ではどうすることもできずに苦しんでいるのです。残酷なことのようにも思えますが、僕は彼女のためにその責務を引き受けようと思いました。だからあなたが念じなければならないことはひとつです。あそこへ行きたい、ただそう願えばいいのです」
長かった。これまでで一番長い解説だった。しかしそれは今度はなんの抵抗もなくすんなりと俺の心に入り込み、俺の凝り固まっていた思考を溶かした。
気がつくと俺は重力から解き放たれていた。周囲の気温や風や物音が、すべて遠くなっていた。空を飛ぶというのは案外簡単なことなのだと知った。それは頭で考えてどうにかなるような種類の物事ではなかった。
思考を操るのとは別の部分で俺は自分の身体を操っていたが、そもそも今の俺の身体と呼べるものがあるのかどうか、わからなかった。赤い光の外殻いっぱいまで自分自身が拡がっているようにも感じた。
どこか諦観を含んだまなざしで見守る古泉を遠く下界に置き去りにして、俺はひどく高い場所へと飛んだ。星に手が届きそうだった。
巨人はひとり、その痩身を持て余したように立ち尽くしていた。破壊衝動の具現化とは思えないほど、さみしそうに、悲しそうに見えた。青く光るその姿の周囲には、片手で足りるほどの数の光点が、太陽のまわりを回る彗星のごとくに煌きながら巡っていた。
俺もまたそのひとつとして引き寄せられた。大きな弧を描き、空を切る。どうすればいいのかわからないが、自然に任せておけばいいのだと思う。だが俺が半透明の巨大な腕に突入しようとした瞬間に、目の前でそれは崩れ落ちた。つづいて肩が、それから胴が、切り裂かれては消失していく。俺は結局何ひとつ手を出すことができなかった。その悲しげな赤い目が、光をなくして宙に溶けていくのをただ見つめていた。
つまりは、すべては徒労だったというわけだ。
だが俺はふしぎなことに、憤ったりもせず、落胆もせず、淡々とした心持ちで古泉の待つ場所へと戻った。身体を包む光はすみやかに消え去り、俺は古泉と吹きさらしのビルの屋上で向き合っていた。といっても相手は相変わらず俺自身の姿をしていて落ち着かないことこの上ないのだが。
「お疲れさまでした」
穏やかな声で古泉が言った。
「俺は何もしてない」
実際何もできなかった。だが空が罅割れ、一気に本来の色彩を取り戻していく瞬間を並んで見ていると、些細なことはどうでもよくなった。
「おまえをちょっとだけ尊敬した、って言っておいてやるよ」
俺がそうささやくと、古泉は俺の顔を使って少しだけ笑った。
[20080220]