終わらない夏の終わりに
九月一日
午後のまだ早い時間だったが、外ではもう蜩の合唱が始まっている。
最盛期の鋭さはないが、いまだ強い陽射しの下を、涼宮さんが朝比奈さんをひきつれて校門に向かっているのが見える。
ここは北高旧館、文芸部の部室だ。その開いた窓の桟に肘をつき、僕は外を眺めている。
九月一日。新学期の最初の日のことだ。
「覚えていますか」
静かに僕は声をかける。視線は外へと向けたままだが、見なくても室内の気配は十分に感じ取っている。
「……ああ」
近い場所から答えが返る。淡い陰りの中にある室内から。
窓際にパイプ椅子を引き寄せて、彼はぼんやりと座っている。どことなく疲れた声をしているのは昨日の苛酷な課題消化の時間のためだろうか。
それとも一万五千四百九十八回もくりかえした、これまた苛酷な夏休みのためだろうか。
今、ひどく珍しいことに、この部屋に長門さんの姿はない。さしもの彼女も精神の疲労を免れなかったものだろうか。
「嘘だったみたいな気がする。一万五千何回も八月後半をやっていたなんてのはな」
「そう感じるのも無理はありませんね」
彼のつぶやきに僕は微笑む。確かにそのとおりだった。僕にしても、克明に覚えているのは最後の一回のみで、それ以外のシークエンスのことは間欠的に訪れる既視感でしか知らない。
しかしそれらの忘れ去られた時間のすべてが無意味なものだったとは思わない。幾度となく得られた既視感は、確かな指標となって僕らを導いた。僕はそう考えている。
一万五千四百九十八回もやり直してようやく僕は、今この場所へとたどりついたのだ。
「後悔してるとか言うんじゃないだろうな」
かすかな音を立てて彼が椅子を立つ。そのまま僕の隣へやって来る。僕たちは並んで外を眺める。
窓の外からは今、僕たちはどんなふうに見えるだろう。SOS団の一員がふたり並んで立っているだけの、ごくありふれた光景だろうか。しかしそこにこめられた意味は、二週間前とは大きく異なってしまっている。
「言いませんよ」
微笑みを絶やさず僕は答えた。後悔なんて、いまさらできるはずがない。多くの難問を抱えながらも、それでも忘れたくないと願ったのは僕だった。彼は僕のその願いを叶えてくれた。
僕のために、彼がそうしたのだと考えるのは、自惚れというものだろうか。
そっと僕は彼の様子を窺う。いつもの気だるげな表情が、飾らず黙ってそこにある。じわりと胸があたたかくなる。
あなたがここにいてくれたことを、僕は誰とも知れない誰かに、永遠に感謝しつづけるだろう。
夏休みは終わったが、夏はまだ終わらない。ひなたであたためられた高い熱を孕んだ風がゆるやかに僕たちの頬をなでて通った。
さらりと流された髪をかき上げ、僕は彼に顔を近づけた。聞き飽きるほど聞いた叱責の声は今は飛んではこない。わずかにひそめられた眉もすぐにゆるんで、やさしく僕を受け入れる。
「好きです」
そっとささやき、僕らはキスをした。
永遠とも見紛う一瞬、明るい光の中で。
END
[20070901]