Family-Agencies 1. 団欒
はあと疲れたため息をつくと、それは白く空気を濁らせた。
もう冬で、かなり遅い時間だった。今日のSOS団の活動はことさら過酷で、いつもだったら一方的に『彼』に押しつけられるような、単純な肉体労働までもが古泉のところへ回ってきた。『彼』は日頃からこんな苦行に耐えているのかと思うと改めて尊敬の念がわきあがる。
それはともかく遅い時間まで残ってあれやこれやと涼宮ハルヒの命に従い、走り回った結果は当然のごとくに重い疲労となって残った。そればかりでなく腹も空いている。
SOS団という集団の底抜けに陽気でパワフルな部分は決して嫌いではなかったが、少しは加減を覚えるべきだと痛感した。
こんな手もかじかむような冬の夜に、ひとりぼっちで家に帰る道を歩いていると、ことさら肩がぎしぎしと軋む。
今日はシャワーで済ますのはやめて、湯船にお湯を溜めて入ろう。そんなことを考えながら、カンカンと音を立てて金属製の階段を上った。アパートの玄関の鍵を鞄から取り出し、回す。
扉を引くと、そこには真っ暗で無人の冷えた室内がひろがって………。
は、いない。
「おかえり、一樹」
台所からふりかえって声をかけた老人に、一樹はやんわりと笑みを見せた。
「ただいま帰りました」
「今日は遅かったようだが」
「ええ、涼宮さんの新たな思いつきにつきあいまして」
「それはそれは」
にやりと老人は笑った。SOS団の内情をかなり詳しく把握している者の笑みだった。
「食事は用意してあるぞ」
「お腹ぺこぺこです」
古泉は靴を脱いで中に入ると、老人の後ろをすり抜け、自分の部屋へとまず行った。四畳半の和室だが、個人の部屋があるのはありがたい。そこに鞄を置き、制服をハンガーにかけると、ラフな恰好に着替えて居間へと戻った。そこでは老人がすっかり食卓の準備を整えて、自分も席へと着いていた。飴色の四角いコタツ机の上に、二人分の皿が乗っている。
和風な室内に反して食事が洋風なのは、それを作った老人がかつてフランス料理のシェフだったという経歴によるものだろう。腕はよく、また態度も折り目正しい。還暦をすぎているという年齢にそぐわぬダンディさをいまだ自然に身につけている彼は、現在はある理由からタクシー運転手に身をやつしている。
コース料理よろしくナイフとフォークとスプーンが並ぶ食卓に向かい合い、老人と少年は同時に胸の前で手を合わせた。
「いただきます」
これをやらないと、老人に叱られてしまうのだった。
食事風景は奇妙なほどに粛々として進む。それはまだ古泉がこの状況に慣れていないからだった。この老人とふたりで暮らすという生活は、ほんの半年ほど前に始まったものであり、それ以前は古泉にとって、老人は微妙に遠い存在だった。
血のつながった母方の祖父であるのだが。
「一樹、ニンジンも残さずに食べなさい」
厳格な口調で言い渡されて、慌てて古泉はフォークの先にオレンジ色の塊を突き刺した。
この光景を、たとえば『彼』あたりが見たら、さぞかし珍奇に感じるのだろうなと思う。老人と自分が血縁関係にあるのだということを、ましてや一緒に住んでいるのだということを、これまで限られた関係者以外には誰にも話したことがない。本来は隠す必要はないのだが、そのほうが都合がよさそうだったから、結果的には隠していることになっている。
老人の名前は新川で、これは偽名でもなんでもない、本名だった。古泉というのは父親の姓だ。
いまひとつぎこちなさの抜けない動きで食事をつづけていると、急に玄関でブザーが鳴った。一瞬古泉は祖父と目を合わせた。こんな時間に予告もなく尋ねてくる相手といったらだいたい決まっている。
「僕が出ます」
そう言って古泉は立ち上がり、来客を迎えた。玄関の扉を開くと、そこには予想どおりの人物が、寒さに頬を赤く染めて立っている。
「こんばんは、もう夕食終わっちゃった? わたしもおじいちゃんの手料理にあずかりたかったんだけど、無理ならデザートだけでもいいわ。おいしいケーキ買ってきたの、一緒に食べましょ」
にっこりとした笑みを浮かべるその人物は、清楚な美少女と見えて実は古泉よりも七つばかり年上の、父方の従姉妹にあたった。
名前は森園生という。
長い黒髪をさらりとなびかせ、カーキーのダウンジャケットを羽織った彼女は颯爽として、孤島でメイド役を演じていたときの面影はない。ごついレザーのブーツを脱いで、古泉より先に居間へと進んでいく姿には遠慮もない。
彼女はここには住んではいないが、家は近所で、古泉のサポートメンバーとしてかなり密接に『機関』に関わっている。
そうだ、問題は『機関』なのだった。
こたつにどっかりと腰を下ろし、「あったか?い」と言いながら袋から缶ビールを取り出している従姉妹の姿に古泉はひそかにため息をついた。
「今日は酔いつぶれたりしないでくださいね。まだ平日なんですから」
「大丈夫、わたしも明日は仕事だもの」
若く見えるが彼女はすでに定職についている。それも結構な大企業のOLだった。それが必要とあらば電話一本で会社を抜け出し、どこへなりとバイクで駆けつけてくるのだから、そのあたり会社にはどう説明をしているのかふしぎでたまらない。
機関の仕事をほかの何より優先させているのは新川も同様で、古泉が電話を入れると、たとえ客を乗せて賃走している最中であっても、客を降ろしてやってくる。そもそもタクシー運転手という稼業自体が、古泉の足となるために選び取られたものだ。
森や新川のそれらの努力は機関のため、ひいては古泉のための無償のものであることを思うと、どうしたところで頭が上がらない。
これはいくらか意図的に外部に誤解を与えているところであるが、機関というのは実のところ、非常に小さな組織である。
三年前、十人ばかりの超能力者がいっせいに涼宮ハルヒによって目覚めたときに、最初に頼ることになったのはどうしても身近な人間、すなわち家族だった。古泉の場合に限って言えば、最初は自分の頭がおかしくなったのかと疑い、激しく煩悶することとなったが、閉鎖空間や神人の存在が自分にしか感じ取れない幻覚ではないと証明するのは案外簡単なことだった。
手でふれて、一緒につれていけばいい。
どんな疑い深い家族も、実際に自分自身で閉鎖空間を体験すれば、信じるよりほかはなかった。そのうちほかの能力者とも連絡がとれ、ことは彼らの身近に限ったものではなく、全世界、もしかしたら全宇宙の存亡にも関わるものかもしれないと見解が統一されるにつれ、話は大きくなった。
しかし問題はひどくデリケートで注意を要する。誰にでも話してしまっていいというものではないし、涼宮ハルヒ本人に対しては特に慎重に対応しなければならない。
そんなわけで、当初は能力者の限られた血縁関係者のみで機関は構成されるようになった。徐々に広がりは見せたものの、それも特筆すべきほどのものではなく、たとえば両親だけだったのが祖父や従姉妹にまで話が広がった程度にすぎなかった。
すわ孫の一大事とばかりに遠方から駆けつけてきてくれた祖父に感謝はしているが、少しばかりその愛は重い。
中学三年間は涼宮ハルヒを遠くから見守るという鉄則を忠実に守り、古泉は両親とともに隣の市に住んでいた。それがこの五月から、急に北高に潜入する必要が出て、古泉は転校しなければならなくなった。
それにともない転居も必要になったが、両親は仕事の都合でそれまでの場所を離れるわけにはいかず、では古泉がひとりでとなったときに、ならばと手を上げたのがこの祖父だった。
高校生に独り暮らしをさせるのは心配だという理屈はもっともすぎて、古泉には拒否権など最初から存在しなかった。
かくして始まった祖父との同居は、ときおり乱入する従姉妹の存在もあいまって、思いのほか強引な勢いで、なし崩し的にうまくいっている。
一応。
「ねえねえ一樹」
古泉の皿から勝手にローストビーフをつまみながら、森がビールのの匂いをさせて身体を寄せた。
「なんでしょう」
「好きな子とかいないの? SOS団の中に」
古泉は思わず口に含んだお茶を噴き出すところだった。
「な、な、な、何を言うんですか!」
「だってぇ、可愛い子ばかりじゃないの。宇宙人と未来人と神様だってわかってても、やっぱり恋ってのはすべてを超えちゃうものなんじゃないの?」
「森さんは漫画の読みすぎです!」
「決めつけはよくないぞ一樹、まだ若いんだ、フレキシブルに世界をよく見ねばならん」
「ほうら、おじいちゃんのほうがずっと頭がやわらかいじゃない」
きゃあきゃあと楽しそうに意気投合する老人と美少女(一見)に、古泉は痛む頭をかかえたくなった。
恋はすべてを超えるものだと、それに関してばかりは否定しないが、あいにく自分の場合は対象をもっと間違えてしまっている。
相手が宇宙人や未来人や神様だったら話は簡単だったのになあと、泣きたいような気持ちを胸に、古泉はごくりと熱いほうじ茶を飲み込んだ。
[20071120]