Family-Agencies 2. 会議
いったい何をどう間違えたのだったか、僕はあまりよく覚えていないし、多分思い出したくないのだろう。
それは僕にとっては許されざることだった。僕の立場やそれにともなう責任は、そんなことをしては駄目だと全力で訴えていたのだが、いざという段になると僕の感情はいともたやすくそれを無視した。
つまりは恋と一般に呼ばれるものの威力は計り知れないということだ。
今だって僕は、誰かに見られるかもしれないという危険を冒しながら、旧館の一室で『彼』とキスをしている。一応は周囲に人気のないことを確かめたが、警戒心などはものの数秒で消し飛び、あたたかく濡れた感触に我を忘れた。
しかしこの件に関しては、僕だけに問題があるのではない。内開きの扉に背を預け、僕の制服の胸元を強く掴んでいる彼も、この行為に陶酔しきっている様子でまったく抵抗の気配がない。いまさら驚いたり嫌悪したりするはずがないのは、これが初めてのことではないからで、何をどう間違えたのか、彼と僕とが恋仲とでも表現すべき関係に陥ってから、すでにひと月が経つ。
そもそも僕が彼に真情を吐露することからしてありえないことだったのに、加えて彼がそれに応えてくれるなんてのは、夢か幻かはたまた僕の気が狂ったのかと疑わずにはいられないほどの想像外の出来事であり、しかしながらそのような機会を一度でも掴んでしまった以上は、二度と手放すことができなくなるのが必定だった。
かくして僕らはこそこそと物陰に隠れながらの逢瀬をつづけ、さりげなく親交を深めていたわけなのだったが、肝心なところで機会を逃し、いまだキスよりも進んだ関係には至れていない。
もちろん、それに満足していたと言えば嘘になる。
僕らはまだ十分すぎるほどに若く、自制心というものの支配を受け付けない。ふれればもっとと思ってしまう。もっと、彼の隠された部分を暴き、深くにまで入り込みたい。
もっと。
彼のだらしなく緩んだ両膝のあいだに、僕は片足を割り込ませた。彼の身体がびくりとゆれる。あたたかな体温が伝わる。それと切なげなふるえと脈動と。
「古泉……」
彼の声が熱を孕んで僕の名を呼んだ。
「…なん、でしょう」
わずかに唇を離して尋ねた。彼は僕から目をそらしながら、赤らんだ頬をしてささやいた。
「おまえんち、行っていいか」
「え……」
その質問の意味がわからないほど鈍くはなかった。頭の中が一瞬真っ白になった。彼が自分からそんなことを言うなんて。僕の胸には幸福感があふれて、今にも爆発しそうだった。
しかし。だがしかし。
「すみません、うちには…ちょっと…」
僕はこう答えざるを得ない。なぜなら僕の家には祖父と、たまに従姉がいるからだ。
それを知らない彼はみるみる眉を曇らせた。僕は慌てて言葉を足した。
「違います、あなたを入れたくないというのではなく、少々事情がありまして」
ああ、こんなのはきっと言い訳にしか聞こえない。僕が家族のことを一切口にしないものだから、彼はすっかり僕を一人暮らしだと思い込んでしまっている。そしてこれ幸いとその思い込みを利用しているのは僕自身だ。機関の秘密主義をこんなときには呪いたい。
せめて数時間でも家を空けてもらうことはできないだろうか。祖父はいつも僕より早く帰ってきて夕食の支度をしているが、事情を話して……いや本当の事情は話せないから、何か理由をでっちあげて、帰宅を遅らせてもらうとか。
そうだ、SOS団のみんなが遊びに来ると言うのはどうだろう。涼宮さんが理由もなしにその種の突発的行動に出かねないのは周知の事実だ。
今すぐ祖父に電話をすれば…!
それはとてもいい考えのように思え、僕はすぐに実行に移さずにはいられなくなった。
「少しお待ちいただけますか」
彼にそう断って、ポケットの中から携帯電話を取り出した。慌てて短縮の一番を押す。
いや、そうする直前に、電話が勝手に鳴り出した。
液晶画面に表示された名称に僕は顔を青ざめさせた。
機関支部一。
僕は彼から身体を離し、声を潜めて電話に出た。
「……はい、古泉です」
『ああ一樹、お母さんだけど、田丸さんたちからすごくいいお肉をもらってね、晩御飯はすき焼きにするから、ちょっとこっちへ帰ってきなさい』
「……えっ!?」
『じゃあ待ってるわね』
有無を言わさぬ女の声が、言いたいことだけ一息で告げると、そのまま返事も聞かずに電話を切った。
僕は茫然としてしまった。
電話の相手は僕の母だった。自宅からかけてきている。機関支部一とはつまり、僕の実家のことだった。ここから電車で一時間ほど離れたところにある。
両親とは普段は一緒に暮らしていないが、別段仲が悪いのではなく、たまには行き来もしている。実家は本当に機関支部としての一面も持っていて、日常の報告はそちらに上げるし、こんなふうに急に呼び出されることもある。
「……閉鎖空間か?」
心配そうに彼が尋ねる声で我に返った。
「いえ、そうではなくて」
沈痛な面持ちを必死になって作りながら、僕はその下で滂沱の涙をこぼした。
「機関からの急な呼び出しで……会議があるようです」
嘘ではない。会議は会議だ。正確に言えば家族会議だが。
「そうか、なら仕方ないな」
僕を責めもせず、むしろ気遣った表情を見せる彼に僕の良心はずきずき痛んだ。
「この埋め合わせは必ずしますから」
なんとしても、いつか必ず。僕は強く心に誓った。
そうでなければ僕の忍耐のほうが先に限界に達してしまうかもしれない。
[20080306]