ファブリーズ
その日、授業が終わって僕がSOS団の部室ということになっている古びた印象の小部屋へ行くと、そこには「彼」がひとりだけでいた。こんなことは珍しい。この部屋へ一番乗りするのはたいていの場合は長門有希で、本当に授業に出ているのか怪しいほどに、常にひっそりと置物のように部屋の片隅に位置を定めている。
その彼女の姿が今日に限ってないばかりか、足の速い大型台風みたいな涼宮さんも、なんだかんだいいつつ楽しげに二年の教室から駆けつけてくる朝比奈さんも、姿が見えない。
「珍しいですね、あなたがひとりでいるなんて」
僕はそう言って扉を後ろ手に閉めた。音楽なんてものを流す習慣のない小部屋のなかはしんとしている。パソコンの起動音ひとつない。
彼からの返事もまたない。
僕は長机の上に鞄を置いた。彼は僕に対して決して愛想よくはないが、かといって挨拶を無視したりはしない。
彼が通常の精神状態にあるならば。
「おや」
思わず僕は微笑んでいた。
返事がないのも道理だった。彼はぐっすり眠っていた。それも、机にうつぶせるでもなく、パイプ椅子の背もたれに寄りかかるでもなく、ほんの少し顔をうつむけている以外は案外姿勢よく、器用に安定を保っている。
僕はその彼のかたわらに立ち、誰に邪魔されることなく幸せそうな寝顔を見つめた。
起こすのは可哀想だと思う。ほかの誰かが来るまでは、このまま寝かせておいてやっても問題はない。どうせ彼が起きていたって僕たちは、延々と勝負の決まったボードゲームをくりかえすか、どこかしら不毛な会話を展開するか、それくらいしかすることはないのだ。
いやそうだろうか。
自分の考えたことにちりりと痛みを感じて僕はくちびるを噛み締めた。
本音を言えば、彼としたいことはほかにもある。ただそれは絶対にできないことだと知っている。世界の平和を守るだなんて、一介の高校生には壮大すぎる理念のために、僕はこの身を犠牲にすることをいとわない。
そう思うことに嘘はない。はずだったのだが。
彼と出会って以来、そのものの考え方やときに意表を衝かれる行動力や洞察の深さ、まったく期待してもいなかったのに与えられてしまった思いやりに、僕はすっかりふりまわされて、調子を狂わせられている。
彼に惹かれている。その感情を否定することはもはやできない。
絶対に成就することがないとわかっている感情をひとり抱え込んで隠しているのは苦しい。そして悲しい。ほんの少しでも何か報われることはないかと浅ましく期待して、だからといって何もかもを投げ捨てて彼に手をのばすほどの度胸もなくて、結局はいつも立ちすくむばかりで終わってしまう。
僕は眠る彼の健やかな頬を見下ろした。
この事態を変化させたいと思ってはいないのだ。変化は多くの場合、悪い方向性の結果を招くだろう。だったらただ黙って見ているだけでいい。微力ながらも彼を守ることができたらいい。
確かにそう思っているのに。
なぜ僕は、眠る彼のくちびるを盗みとろうとしているのだろう。
彼の眠りがあまりに深いから、まったく目を覚ます気配もないから、ほんの少しふれるくらいのことならきっと気づかれることはないから。
そんなふうにくりかえし心の中で言い訳をして、僕はそっと彼に顔を近づけた。素朴で存在感のある彼の輪郭が迫る。もう呼吸が肌にふれるほどの距離だ。薄く開いたそのくちびるの色は淡く、決して女性的ではないのに僕を強い力で惹きつける。
あと少しでふれるというそのときに、彼の眉間には急に皺が寄り、苦しげな表情になった。
「やめろ!」
ふいに彼の喉から零れたのはそんな拒絶の言葉であり、僕は心臓がとまりそうなくらいに驚いた。
目を覚ましたのかと思ったのだ。それで自分が何をされそうになっているのか気づいたのかと。
ところが違った。彼の目はかたく閉じられたままで、苦虫を噛みつぶしたような表情のまま身動きもしない。
寝言だったのだ。
しかしなんというタイミングだろう。まるで僕の行動を読んだみたいだ。
僕はいまだ収まらない心臓の鼓動を鎮めようと深く息をついた。額に冷たい汗が浮いていた。
勇気のないことだと自嘲してみてもはじまらない。はじめから僕にはそんなものはないのだ。眠る彼のくちびるひとつ奪えない。彼が目を覚ましたあとのあれこれを引き受ける気概もない。
彼とキスをしようなんて、百年早いと思ったほうがいい。
僕はため息をついて身を起こそうとした。何食わぬ顔で机をはさんだ自分の定位置に戻るつもりだった。
その瞬間だった。
「やめるな!」
突然鋭く耳に飛び込んできたその言葉に、またしても僕は心臓が破れそうになった。
寝言。また寝言だ。彼は目を閉じたままだし、呼吸も深い。僕をからかうために寝たふりをしているという様子もない。
いったいどんな夢を見てるんだ。
たとえ寝言であってもやめるなと言われたことで、僕の精神は不覚にも少し昂揚した。いまや彼にも責任の一端がある。彼がそうしろと言ったのだから、僕がこうすることには正当性がある。
そんな屁理屈をもとに僕はもう一度彼に顔を近づけた。ところがだ。
「やめろ!」
今度も計ったようなタイミングで彼はそんなことを言い、僕が離れようとすると引き止めようとするかのように「やめるな」と言った。
そんなことをさらに一回くりかえし、ついに僕はキレた。
「どっちなんですか!」
彼の肩を掴んで強引にふり動かすと、ようやく目が覚めたらしい彼はぼんやりとした様子で僕を見た。そのまったく事情を理解していない目つきがひどく憎たらしい。
「どうしたんだ古泉」
「あなたはひどい人だ! 僕の心をもてあそんで!」
「なんの話だ!」
そこへちょうどやってきた涼宮さんや朝比奈さんや長門さんが、部屋の入り口のところで茫然と僕たちを見ていたが、泣きそうになっていた僕には正直言ってそんなことはどうでもよかった。
世界の平和? くそくらえだ。
ちなみにその後聞いた話によると、彼はそのとき自分がどんな夢を見ていたのかをまったく覚えていなかった。
実に罪作りな夢もあったものだと思う。
[20070808]