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たかが、されど、魚卵

 古泉の部屋に入り浸るようになってしばらく経つが、こいつの冷蔵庫の中身の貧困さときたら毎回めまいがするほどだ。一般的な高校生男子に自炊をしろというのも酷な話かもしれないが、それにしたってほとんどの場合は脱臭剤のほかにはペットボトルの水と牛乳パックくらいしかない。あとたまにコンビニで買ってきたとおぼしきプリンだとかサラダだとかが、ちんまりと鎮座していることがある。
 どう転んでも微妙に切ない気持ちになる眺めだ。
 しかし、この日の古泉の冷蔵庫は少しだけ違っていた。飲料とは別に、中央にひとつだけぽつんと何かが入っていたところまではいつもどおりだが、その物体がこれまでにない珍妙さをかもし出していた。
「キャビア……」
 なんとなく庶民の、それも日本の平凡な高校生には縁遠い感じのする食品である。ちなみに俺の家の食卓には登場したことがない。
 古泉にとっては常備食なのか? くそ、すかした野郎だぜ。
 そう思いながら俺が、まだ開けられた気配のない小ぶりの壜の中の黒い粒々をためつすがめつ見ていると、いつまでも冷蔵庫の前から動かない俺に不審を覚えたのか、古泉が近くへ寄ってきた。
「あ、それ」
 俺の手の中の壜を見て、困ったような声を上げる。
「これどうやって食うんだ?」
「……僕のほうこそそれをお訊きしたいと思いまして」
「はあ?」
 なんでも話によると、この瓶詰めは『機関』のお偉いさんから海外出張の土産として渡されたものらしい。小ぶりなくせに実はかなり高価な品なのだそうだ。
 で、それを古泉は、もらったはいいものの持て余し、とりあえず冷蔵庫に入れて放置してあるというわけだ。
「適当に食えばいいだろ」
「そう言われましても」
 ああそうだ、こいつは料理がまったくだめなんだった。
 途方に暮れた古泉の顔を見て俺はため息をついた。クラッカーにクリームチーズでも塗ってその上に乗せるだけのことを料理と呼べるのか否かは議論の余地があるが、こいつにはそのひと手間をかけるという発想がない。
 古泉とキャビア。一見するとそんなに悪い取り合わせじゃないのに、どうしてこの男は妙なところでどんくさいのかね。
「最悪、このままスプーンで貪り食えばいいような気もするが」
「それではさすがにもったいないでしょう」
「食わずに悪くするよりはもったいなくない」
「あなた持って帰りませんか」
「理由もなくもらうには高価すぎる。断る」
「それでは…」
 気体に満ちた目で古泉が俺を見つめてくる。あ、この野郎、おまえの考えていることがテレパシーみたいに伝わってきたぞ。日頃のアイコンタクトに鍛えられて余計なことまで読み取れるようになっちまったみたいだ。嬉しくない。実に嬉しくない。
 しかし俺は深々とため息をつき、こんなことを言ってしまうのだから終わっている。
「なんか作るか」
 レッツゴークッキングといっても実際料理をするのは俺だけだ。ちょうど時間は昼だし、タイミングとしては悪くないが、どうして俺がこいつの家政婦まがいのことをせねばならんのか、最近はなはだ理解に苦しむ。
 料理といっても俺にはたいしたことはできないし、する気もない。パスタをゆでて、レトルトのチーズクリームソースをかけてやるくらいが精々だが、それでも古泉は何が嬉しいのかにこにこしている。
 できあがったパスタにキャビアを親の敵のように盛りつけて、それで完成だ。
 少量残しておいてもこいつがきちんと食べるとは思えないので潔くひと瓶を丸ごと使った。あーこれ実はすっげえ高級料理なんじゃないかな、ひと皿一万円くらいしていそうだ。
 しかしそんな高級感は微塵も感じさせないチープな装いで、哀れなことにパスタの皿は俺と古泉の前に並べられた。キャビア様に対して申し訳ない気がするが仕方がない。
 リビングの低いテーブルに向かい合って座り、「いただきます」と言って俺たちは手を合わせた。

[20071001]