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ハードボイルド(固ゆで)

 高校一年の年末、雪山遭難というなんともベタな状況に陥った俺たちは、当面吹雪をしのげる洋館に避難することができたはいいが、かえって逆に『敵』の手のひらの真ん中へ飛び込んでしまった感がなくもない。
 無制限食べ放題的に食材がそろっているキッチンとビジネスホテルみたいな簡素な個室、大浴場に乾燥機つきのランドリー室が備えられ、急場の生存はおろか、ここでは入手できないもののほうが少ないだろう。あいにくテレビやラジオばかりは見当たらなかったが、探せばどこかに世界中のあらゆる映画を取りそろえたホームシアターくらいあるんじゃないだろうか。至れり尽くせりの環境だ。
 ハルヒなんかはすっかりこの洋館の設備を楽しんじまってるみたいだが、俺はとてもそんな気持ちにはなれない。朝比奈さんとハルヒの作ったホットサンドのおかげで腹は満たされているが、身体の芯の部分はいまだあったまっちゃいない。
 ここは少し落ち着いて、冷静に考え事をすべきときだ。
 というわけで、湯上がりの朝比奈さんがほわほわと湯気を立てながら呼びにきてくれたこともあり、俺と古泉はとりあえず風呂に入ることにした。
 風呂に。
 正確に言うと、大浴場にだ。
「……温水プールみたいなものですよね。それか銭湯とか」
 ここへ来て突然、始終笑顔を絶やさないエセ超能力少年は、なぜかひどくおぼつかない口調になった。少し前まで滔々と俺に小難しい仮説を語っていた奴と同一人物とは思えない。
「おまえ銭湯行ったことないんだろう」
 俺はじろりと古泉を見上げた。理由なんて特にないが、ピンと来たんだ。
「……ええ、まあ」
「大浴場もはじめてか」
「……そうですね」
「別に普通の風呂と変わりゃしないさ。ちょっと広くて気持ちがいいだけだ。背中にカラフルな模様があったりしたら、多少は人目を気にしないといけないだろうが、それだってここにはほかに俺しかいないわけだから…」
 そこまで言ってふと俺は気がついた。さすがに古泉の背中に昇り竜だの弁天様だのが描かれているってことはないだろうが、こいつは俺には立ち入ることのできない特殊な事情を抱えている。閉鎖空間での戦いのうちに、他人には見せられない傷跡をいくつも負っていたりするかもしれない。
 そのせいでこいつは……いやいやそれは考えすぎだ。そんな理由がなくたって、自宅に風呂があるんだから、わざわざ銭湯に入りにいく必要はない。合宿や林間学校の類に参加すれば、自動的に大浴場なるものに放り込まれることになるだろうが、こいつにはそんなにぎやかで牧歌的な過去はおそらくない。
 憐れな奴だ。
 じゃなくて、なぜ俺が古泉の風呂事情なんぞについて真剣に悩まなければならんのだ。
「いいから行くぞ!」
 俺はもう迷うのをやめ、妙なためらいを見せている古泉の腕を無理やり掴み、大浴場まで引きずっていくことにした。脱衣場の扉を開くと、なるほど朝比奈さんの言っていたとおり、新品らしき下着や着替えが整然と用意されている。ここまで用意がいいっていうのも気持ち悪いな。じゃなくて。
 なかなか広い、いい風呂だ。ジャグジーやジェット、サウナまで完備しているようじゃないか。人生初体験の大浴場としては悪くないんじゃないか。さあ古泉、ぐずぐずしてないで早く服を脱げ。変に恥ずかしがるのはやめろ、俺まで落ち着かない気持ちになるじゃないか。
「あっ、あの…!」
 慌ててタオルで前を隠そうとする、男らしさのかけらもない長身をずるずる引っ張って俺は洗い場へ足を踏み入れた。ちなみにちらりと見たところ、古泉の背中におしゃれな模様はなかったが、同時に特別目立つ傷跡もなかった。少しほっとした。 
 軽くかけ湯をしてから湯船に入るんだぞなんて、どこの子供にする注意だかわからないようなことを言い、俺はさっさと先に、なみなみと張られた湯の中に身を沈めた。古泉は俺のすることをじっと眺め、それから忠実に手順を模倣して、おそるおそる自分も湯船に浸かった。
 ここのお湯はちょっと熱すぎだな。吹雪から逃れてやってきたことを思えばこれでちょうどいいのかもしれないが、湯にふれあった肌がぴりぴりする。
 てなことはどうでもよくて、おい、古泉。
 なんでそんな離れたところに縮こまるみたいにして入ってんだおまえは。まったく目を合わせようとしないどころか、あからさまに顔を背けていやがる。俺と一緒に風呂に入るのがそんなに嫌だとでも言うのか。それは確かにむやみに近寄って来られたら、俺のほうこそ気色悪くて後じさりせずにはいられんだろうが、そこまで距離を置かれるとむしろ腹立たしいな。なんだかわからんが汚らしいとでも思われているんだろうか、不愉快だ。
 ものすごく不愉快だ。
「……古泉」
 思わず低い声で名前を呼ぶと、古泉はびくっと肩をふるわせた。 なんだなんだ俺は悪徳代官か、おまえは借金のカタに売り飛ばされそうになっている小娘か。なんでそんなにびびってるんだ、俺が何かしたってのか。
「いえもちろんそんなことはありません。ただちょっと僕は先に頭を洗ってこようかと」
 うわずった声でそんなあからさまな言い訳をして、湯船から上がろうとした古泉の肩を俺はがっしりと押さえつけた。
「百数えるまで上がるな」
 いかんな。妹にいつも言ってる説教が口癖になってるみたいだ。
 古泉は息を呑み、そのまま沈黙した。仕方がないから俺がかわりに数えてやった。
「いーち、にぃー、さーん……」
 数えながら馬鹿馬鹿しくもなってきたのだが、始めてしまったものを途中でやめるのもばつが悪い。そんなわけで俺は、なにやら恥ずかしい気持ちに駆られながらも、よく音の響く大浴場の湯船の中で、ひとり声を上げつづけた。
 だがよく考えてみれば、俺ひとりだから恥ずかしく感じるんじゃないだろうか。古泉、おまえが黙っているのが悪い。やたらと血色のいい顔色をして、伏せ目がちのまぶたがほんのりピンクに染まり、蒸気でしんなりとした髪がやわらかく額を隠しているそこの異様にきらきらした古泉一樹。
 ……おまえ、血色よすぎじゃないか?
 俺の危惧は大正解だった。ふっと一度強くまぶたをふるわせると、古泉は次の瞬間ぶくぶくと湯船に沈んでいた。焦ったのは俺だ。おいと叫んで、意識のない自分より背の高い身体を浴槽から引っ張り出すのがどれだけ大変な作業だったことか。幸い呼吸はしっかりしているようだが、このままこいつの息の根が止まってしまったらどうしようかと、俺はらしくもなく真っ青になって応急手当に奔走した。
 誰かに助けを呼ぼうにも外にはハルヒたちしかいないし、いくらなんでも素っ裸の古泉を女子の目にさらすわけにはいかんだろう。脱衣所の低い長椅子に古泉を寝かすときにはさすがにタオルくらいはかけてやったがな。
 そんなわけで俺はひとりきりで奮闘した。それはもうがんばった。扇風機を引きずってきて古泉を強風にさらし、額には濡れタオル、腋の下には氷嚢といきたかったがそんなものは近くになかったので、これまた仕方なく濡れタオル、足の下にタオルを重ねて頭の位置を低くして……ってこれは別の何かの処方だったか? もういい細かいことを気にするな。俺はとにかく必死で走り回り、できる限りのことをした。
 古泉が気がつくまでには、実はそう時間はかからなかったんじゃないかと思う。
 ん、と小さな声が喉からもれて、そのまぶたがゆっくり持ち上がっていくさまは、幻想的なまでに美しかった……気がしないでもない。ここが大浴場の脱衣所でなく、また古泉が湯あたりでぶっ倒れていたんじゃなければの話だ。
「……大丈夫か?」
 多少は俺にも責任がある。おそるおそる問いかけた俺に、古泉はつい今さっきまで気を失っていた人間とは思えない、気づかわしげな表情を浮かべてゆっくりと手をさしのべた。
「あなた、何を泣きそうになっているんですか?」
 俺は思わず手にしていた濡れタオルを古泉の顔に投げつけた。
「……ひどいな」
「おとなしく寝てろ!」
 ああこっちまで一緒にのぼせ上がりそうだ。
「だいたいおまえは、湯あたりしやすい体質だったら先にそう言えよ。倒れるまで我慢する奴があるか」
「……確かに僕は熱い風呂やサウナがあまり得意ではありませんが、倒れてしまった原因はそれだけでもないんです」
「じゃあなんだ?」
 俺の質問には答えずに、古泉は額の濡れタオルで顔の上半分を覆ってしばらく口をつぐんだ。
 微妙な緊張を孕む沈黙のあいだ、扇風機のまわる音と、古泉のかすかな呼吸の音だけがはっきりと耳に届いた。
 やがて、色の薄い古泉のくちびるがゆっくりと開いたかと思うと、そこから出てきたのは俺の予想外の言葉だった。
「知っていますか、ハードボイルドというのは本来は文字通り固くゆでられた卵のことで、それが転じて、感情に流されにくい、強靭で妥協を知らない人物像を指すようになりました」
「……はあ?」
「僕も、もう少し長風呂をして、自分を鍛えようかと思いまして」
「やめとけ」
 俺はため息をついた。こいつの発想の突飛さはときどき俺をどっと疲れさせる。
「いくら風呂でゆでられたっておまえの中身まで凝固するわけじゃないだろう。半熟程度でいいじゃないか」
「……そうですか?」
「そうですよ」
 投げやりに俺は返事をして立ちあがった。
「俺がおまえのかわりにバリバリのハードボイルドになってきてやるから、おまえはもう少し休んどけ」
 古泉は小さく笑った。俺はそんな古泉に、冷えた水の入ったコップをさしだした。それを手渡す際にふれあったあいつの指先はひどく熱くて、俺はどうしたことか、それに心臓をひと撫でされたような気がした。

[20070810]