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ミスター・ハートフル

 少々困ったことになりまして、という切り出しの電話が古泉からかかってきたのは、土曜の朝のことだった。
 残念なことに、目が覚めて突然困ったことになっているという状況に俺は慣れっこになっていたから、さほど驚きもせずに、どうしたと尋ねた。
 古泉のことだからさぞや嬉々として事細かに事情を説明してくれるのかと思いきや、ためらった様子で言葉を濁したのは意外だった。
「説明することは不可能ではありませんが、実際見ていただいたほうが早いといいますか、あまり僕としてもこの状態を正確に認識したくはないといいますか」
「はあ?」
「ともかくも今現在僕は家を出ることができない状態であり、我が家には食料の蓄えがほぼ存在しておらず、仮にあったとしても今の僕が料理といった作業に従事することが可能かどうかは微妙なところなのでして、この際頼るべきはあなたしかいないと」
「あーつまり、食い物買ってこいと」
「そうです」
 最初からそう言えばいいんだ、しちめんどくさい奴だ。
 しかし電話口のむこうで、ほっこり微笑んでいる古泉の顔が目に浮かび、俺は古泉の頼みを叶えてやることにした。まあ困ったときはお互いさまっていうしな。
 たまたまその日はSOS団の市内探索がなく、俺にはほかに予定もなかった。本当だったら昼まで惰眠をむさぼり、それからぼんやりとやりかけのゲームでもするつもりだったんだが、この際それはあきらめてやってもいい。まあ届け物をするだけなら、すぐに帰ってこれるだろう。そう思いながら俺は自転車を飛ばして古泉宅へとおもむいた。
 途中のコンビニで買出しをして(古泉はなんと一品一品名前まで出して指定しやがった。いつも買うものというのが決まっているらしい。適当じゃいかんのか。ひとつだけ頼まれてもいない白桃ゼリーをカゴに入れてやったのは差し入れのつもりだった。まあ相手は風邪っぴきってわけじゃないんだがな、なんとなく)。
 初めて訪れる古泉の家は、ありふれた外見のアパートだった。地図を片手にそれを探し出したときには少し意外な気がした。もっとも長門のとこみたいな豪勢なマンションなんかに住んでやがったら、それはそれで業腹だったに違いないんだが。
 敷地の隅に自転車を停め、カンカン音を立てて金属製の外階段を上った。玄関のベルを押すときにも特に緊張はしなかった。俺は待たれている訪問者だ。なんの気兼ねがいるものか。
「はい」
 すぐに内側から声がして、ドアの鍵が外される気配がした。しかしドアは中から勝手に開かない。俺が開けるのを待っているみたいだ。
 少し不審な気がしたが、遠慮せずにドアを引いた。部屋の中は薄暗かった。意図的に照明を落としてあるんだろうか。外から見えないように。
 なんのために?
「古泉?」
「まあ、入ってください。それからドアを閉めて」
「……ああ」
 不穏な予感を覚えながらも俺は古泉の言葉に従った。狭い玄関に身体を押し込み、うしろでドアを閉じる。
 部屋は1Kみたいだ。左手に簡易なキッチンがあり、ドアがふたつ。正面奥に磨りガラスの入ったドアがあるが、それは今は開いている。この場所がひどく暗いのは明かりが点いてないからだけじゃなく、奥の部屋のカーテンがきっちり閉じられているからだ。
 そう認識した瞬間に、多分古泉の手が壁のスイッチを押したのだろう、ぱっと天井の蛍光灯が白々とした光を周囲に投げかけた。
 瞬間、俺は絶句したね。
 驚きすぎて声もでない。笑っていいのか、哀れんでいいのか、萌えればいいのか、ぞっとすればいいのか、その判断すらつかない状況ってのはなかなかレアだ。
「こういうわけなのでして」
 愁いを帯びた声で静かに古泉はささやいた。
 ああ、これは確かに電話口では説明しにくいかもしれんな。
 勇気を奮い起こして解説しよう。まず、古泉には耳がついていた。何を当たり前のことをと思われるかもしれないが、我慢して先を聞いてくれ。人間の両耳のほかに、頭のてっぺんの左右にもうワンセット、獣の耳がついていた。
 なんだねこみみかありふれたオタク系萌えアイテムだよなとか、そうでないならウサギか狐か熊だろうとか早合点してもらっては困る。
 片方の耳は多分犬だった。ちょっと毛がふさっとしてて、途中から前に折れて下がっている耳だ。ところがもう片方の耳は、どう見てもウサギだった。それもずいぶん巨大だ。真っ白の繊細そうなそれがぴんとのびて、なんと天井にまで達している。先のほうがちょっぴり窮屈そうに折れ曲がっているのがひどく哀れだ。
 顔は一見したところ本来の古泉のものと変わりがないが、よく見ると唇の端から巨大な犬歯が飛び出している。あー、これは、もしかすると吸血鬼とかなんとかいうアレかな。フランケンシュタインじゃなくてよかったなとだけコメントしておこう。
 もうちょっと視線を下げると、すごいものが目に入る。着ているシャツを下から盛り上げて、朝比奈さん(大)より特盛風の巨乳がどーんと存在を主張しておられるのだ。
 そろそろこのあたりで食傷気味になってきたのだが、もうひとつどうしても目をそらさないわけにはいかない点がある。
 古泉の右手はなにやら非常におぞましいものに成り果てていた。
 ぶっちゃけて言うとザ・触手に。
 これを触手以外のなんと呼んでいいのか俺にはわからん。ぬめっとしてて、うにょうにょしてて、やわらかそうで、先端のほうで細くいくつにも分岐している。
 思わずまじまじと見つめてしまった俺の視線から古泉は腕を隠すようにして、恥ずかしそうに小さく言った。
「あまり見ないでください」
 羞恥を覚えるポイントがどこかずれている気がするがまあこの際そんなことは問題じゃない。
「確かにうかうか外を出歩ける格好じゃないな」
「ええ、いくらなんでもこれは。ある意味、一部の特殊嗜好をお持ちの方々の、萌えの集大成的姿なのかもしれませんが、詰め込みすぎというものでしょう。ちなみに下半身がどうなっているのかは、あなたの精神の安定のために伏せておこうと思います」
「最初から訊いてねえ」
 さすがは古泉一樹、こんな状態になっても口数だけは減らない。その不屈の精神力は見上げたものだ。
「……これもまた、ハルヒか?」
「さあ。原因の追求に意味があるとは思えません。明日になって元に戻っていればそれでよし、駄目だった場合は長門さんにでも頼るほかはありません」
「そうだな」
 俺は溜息をついた。やれやれだ。とりあえず今はやれることをやるしかない。
「ほら、買ってきてやったぞ」
 いまさらながら俺がコンビニのビニール袋を差し出すと、古泉は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
 触手の中の一番太い一本がしゅるんとのびて、器用に俺の手から袋を受け取った。案外強度があるらしい。
「……なんかほかに俺にできることはあるか?」
 おずおずと尋ねてみたが、自分では何も思いつかなかった。古泉も少し困ったように小首をかしげた。
「そうですね、この姿でも大抵のことは普通にできるのです。できないのは外に出ることくらいでしょうか。ですからあなたにこれ以上のご迷惑をおかけするのは…」
「そうか」
 どことなく気持ちが沈んだ。確かに俺にできることなんてない。古泉の言葉も暗にもう帰れと言っている。
「じゃあ、俺、帰るな。またなんかあったら呼べよ。明日になってもまだそのまんまだったりしたときとかさ」
「ええ、そのときはお願いします」
 古泉は淡く微笑んだ。気がついたら俺たちはずっと玄関で立ち話をしてて、俺なんか靴も脱がないままだった。帰るためには回れ右さえすればいい。
 心残りな気持ちを抱えながら俺は振り向き、すぐそこにあったドアのノブに手をかけた。強く押し開ける。外の明かりがまっすぐに差し込んでくる。
 と、そのとき、俺の身体は奇妙な抵抗を感じて止まった。
 心理的なものじゃない。物理的なそれだ。シャツの裾がどこかのでっぱりに引っかかっているみたいな、かすかな力が俺を引きとめた。
 振り返る。原因はすぐにわかった。古泉が背中のうしろに隠そうとしている右腕のあたりから、ひょろりと一本だけ、細い触手がのびてきて、俺の服の裾に絡まっている。
 行かないで、と言いたげに。
「あ、いえ、これは」
 なぜか古泉は顔を赤らめ、左手で慌てて触手を俺から引き剥がした。だけど俺にはわかってしまった。帰っていいと俺に言ったのは古泉の虚勢にすぎなくて、本心では心細く、俺にここにいてほしいと思っているんだろう。触手はそんな古泉の口に出せない気持ちの表れだ。
 なんだか、とてもいじらしく思えてしまった。
「わかった、帰るのはやめにする」
「え?」
 突然の俺の宣言に古泉は当惑したようだが、いまさら俺もあとには引けない。
「どうせ一日だらだらすごす予定だったんだ。その場所が家でもここでも大して変わらん。おまえだってたとえ外で用事があったとしても、その身体じゃ全部キャンセルするしかないだろう?」
「……もともと今日は一日のんびりしようと思っていましたよ」
 苦笑い的な笑みが古泉の顔に浮かんだことに、俺はどうしてかひどく満足した。古泉と一緒にいたところで、部室の延長でゲームをするくらいのことしか思いつかないが、それが古泉の部屋でというのは案外目先が変わっていいかもしれん。
 刺激ならとりあえず、目の前の男の珍妙極まりない外見が、嫌というほど提供してくれているからな。

[20081021]