ある朝、目が覚めた瞬間に
ある朝、目が覚めた瞬間に、自分がそれまでと別人になってしまったと感じたことがあるだろうか。記憶はまったく損なわれておらず、僕という人格の同一性は保たれているというのに、昨日までと今日はまるで違うと感じてしまう。
部屋の中の物の配置、毎日着て通っているはずの制服、はたまた鏡の中に見る自分自身の顔でさえ。
どこか見慣れないものだと思う。
しかしそんなわけはなかった。この五月からずっと、僕は光陽園学院に通っているのであり、転校してきた当初ならいざしらず、半年以上が経過した十二月の末にもなって、違和感を覚えるというのもおかしな話だ。
僕は落ち着かない気持ちをふり切り、朝の支度をして家を出た。学校へ行ってしまえば、こんな不安定な感覚などは忙しさに簡単にまぎれてしまうだろうと思っていた。
寒い日だった。空は晴れているのに、風が氷片を含んでいるかのように切りつけてくる。今日はもう二十日で、あと片手で足りるほどの日数を通えば冬休みだ。
特別それを楽しみだと思ってもいない自分に気づいて僕はため息をつく。両親と離れて暮らしている関係で、今年の年末年始に僕はひとりきりだった。今の高校に友達がいないわけではなかったが、あまり気軽に家に招待するような相手はいない。長い休日などいくらあっても気が重いだけだ。
駅に着くと、黒い学ランと女子のブレザーの背中が多く目に留まるようになる。光陽園学院は私鉄の駅のすぐそばにある。光を吸い取る黒い制服をたくさん目にすると、ふいに僕の中の違和感は強まった。僕は目を押さえてしばし立ち止まった。
こうじゃない。こうじゃなかったはずだ。
しかし、僕はその異質な感覚の正体を見出すことができなかった。おかしいと騒ぎ立てる皮膚感覚とは対照的に、僕の理性や記憶はこれで正しいはずだと主張する。
結局のところ、僕は理性の判断に従うしかない。
なにげなく右手で自分の左の手首を握ると、そこには腕時計の感触があった。なじんだ皮の手ざわりに安堵する。心が平静になる。
それは僕が中学に入学したときに父が買ってくれたものだった。以来、ずっと身に着けている。ほとんど、どんなときにもだ。
左腕を持ち上げ、耳に近づけた。秒針の動く規則的な音が聴こえた。その音は奇妙なことに、今の僕の唯一のよりどころであるような気がした。
少しして、僕は再び通学路を歩きはじめた。教室の自分の机にたどりつき、身を入れられないままに授業を受けた。胸の中で違和感が募ると、僕は時計の音に耳を傾けた。
大丈夫。
僕は大丈夫だ。
その日一日はずっと悪い夢の中にいるみたいだった。時間のすぎるのは遅いようで早く、早いようで遅かった。最後の授業が終わるまでに、僕は誰とどんな話をしたのか、昼に何を食べたのか、ほどんど何も覚えていなかった。
ようやく帰宅が許されると少しほっとした。まだしも家の中のほうが、このどこか現実味の薄い学校にいるよりも、落ち着けるに違いないと思えた。
足早に正面玄関を出ようとすると、前方につややかな黒髪をなびかせた、小柄な女生徒の姿が見えた。
涼宮さんだ。
僕はひどくほっとした。最近では邪険にされることが多くなったが、彼女はこの学校内で、僕が最も多くの時間をともにした人だった。
転校したての僕のところに、彼女が突然やってきたときのことを、今でも鮮明に覚えている。
それは『やってきた』というよりは、『急襲された』と表現するのがふさわしいような出会いだったが、一方的に機関銃のごとくの不可解な語句を浴びせかけられながら、どうしてだろうか、僕は彼女をひどく懐かしいと感じたのだった。
過去のどこかで彼女と出会ったことがあるのではない。彼女に似た人を知っているのでもない。それでも僕は、彼女とともにいることが、自分にとって正しいことであるような気がしてならなかった。
涼宮さんからはすぐに飽きられてしまったようなのだったが、それでも僕はあきらめず、できるだけ彼女のそばにいようとした。
「涼宮さん」
少し足を速めて隣に並ぶと、彼女は不機嫌さを隠そうともしない顔でちらりと僕を見た。
「何か用? あたし、今日はあまり気分がよくないの。朝から」
「それは奇遇ですね。僕もです」
それだけを言って僕たちは口をつぐんだ。何か話したいことがあるというのではない。ただ僕は彼女を見ていられるだけで満足だった。
彼女のそばにいれば僕は安定していられる。
何かが足りないという思いを忘れていられる。
ぼんやりと痛む瞼を強く下ろして瞬きをし、僕は正面を見据える。
黒い制服の群れの中に、ぽつりとひとつ、青緑色のブレザーがたゆたっている。
[20071220]