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居眠りのすすめ

 頭上をざわざわと複数の人間の声が横切っていくのが聞こえる。
 なんでこんなところで寝てるのよキョン、お疲れなんじゃないですか、あ、キョンくん目の下におっきなクマがありますよ、昨晩彼はほとんど寝ないで映像編集をした、えっなにちょっとあたしのせいだって言うの有希、僕もお手伝いすればよかったですね、あたし、あたしは何のお役にも立てなくて…、みくるちゃんはいいのよそんなことしなくったって、だって主演女優なんだから、そうですよこうしたことは機械の扱いの得意な人間がやればいいんです、…………、あれ有希もしかしたらやりたかった?、長門さんにはきっと簡単なことなのでしょうね、…わたしにできるのは補助することだけ、あーもう今から言っても仕方ないわ、とりあえずこのバカを叩き起こして進行状況を聞かないと、まだ少し時間に余裕がありますから、今はこのまま寝かせておいてあげてはいかがでしょう、キョンくんなんだか幸せそうな顔をしています、能天気にいい夢見てんじゃないのまったく、あたしたちだって暇じゃないんだから、あの、涼宮さんも少し疲れているんじゃないですか、あたし? あたしはいいのよ別に、そうは言いましても女性の大敵は睡眠不足と疲労でしょう、あとのことは僕が引き受けますから今日はみなさんお帰りになってください、えっでもそれじゃあ古泉くんが、あたしもお茶を出すことくらいしかできないけどでも、いえいえ大丈夫ですよ、今回僕はあまり働いておりませんでしたし、今日は早めに切り上げて、かわりに明日またやればいいんです、……そう、かな、えっとお…、パタンと本を閉じる音。
「……行ったか?」
 あたりが静かになってから、のろのろと俺は頭を上げた。
「ええ」
 涼しげな声で答える男はお行儀悪くも机の上に腰を下ろしている。その秀麗な顔に浮かんだ笑みは少しだけ酷薄だ。
「いつから起きていたんですか。あなたもずいぶんと人が悪い」
「……途中からだ。あんだけ頭の上でうるさくされたら嫌でも目が覚める。そしたらなんだか気がついたと言い出しづらい話の流れだったんだ」
「みんな、あなたを気づかっていたのです。やさしい方たちです」
「……かもな」
 本当にやさしかったら、映画の編集をたったひとりに任せたりはそもそもしないと思うのだが、まあそんなことをいまさら言っても始まらない。
 まだ重い頭を手のひらで支えて机の上に肘をついた。
「それでここに残ったおまえは俺を手伝おうという殊勝な心がけでも起こしたのか」
「残念ながら、これからクラスの出しものの最終調整が残っておりまして」
微笑む男にはそれでもすぐに動き出しそうな気配はない。こいつは俺がすぐに起きなかったらどうするつもりだったんだろう。
「そのときは仕方ありませんからいったん起こしたかもしれませんが、僕のほうの用事が済んだあとでもう一度ここに立ち寄るくらいのことはできましたよ」
「そいつはご親切なこった。ついでに手伝うくらいのことをしてもばちは当たらんのにな」
「それはご遠慮申し上げたほうがいいでしょう。涼宮さんはあなたの編集に期待しておいでです。ちょっとした助力程度ならともかく、あまり大々的に手を貸しては作品のテイストに影響を与える危険性も出てきます」
「……やれやれ」
「本当に、お疲れさまです」
 そう言いながら古泉は俺の頭をやわらかく撫でた。軽く頭皮にふれて、髪に指をくぐらせ、撫でつける。寝癖でもついているんだろうか。しかしその動きはやさしく、自然な気づかいに満ちていて、ふしぎなことに気分が落ち着いた。古泉、実はおまえの指先からはマイナスイオンでも出てるんじゃないのか。
「……行かないのか?」
 クラスに用事があるんだろう?
「まだ少し時間に余裕があるんです」
 腕時計に視線を落としながら名残惜しそうなそぶりを見せる古泉の心理は俺にはちっとも理解できないものだったが、その響きのいいおだやかな声とやわらかな気配は、温水プールに浮かんでいるときに似た、奇妙に心地よい眠気を俺にもたらした。
 せっかく一度目が覚めたのに、また居眠りしたくなってきた。
「じゃあこうしよう。俺はこれからもうひと頑張りするつもりだが、もしかしたら途中で眠くなってまた居眠りしてしまうかもしれん。万が一そうなったときに備えて、おまえは自主的に申し出た監督責任を果たすためにもう一度ここへ俺を起こしにくるべきだ」
 ぱちぱちと古泉はふしぎそうな顔で瞬きをした。
「俺の言ってる意味は理解できたか?」
「……ええ、それはかまいませんが」
「おやすみ」
 俺はまた机の上に腕を組んで突っ伏した。もう古泉の顔は見えない。ただその少しあきれた気配は伝わってくる。
「……もう少し頑張るんじゃなかったんですか」
「頑張るとも。まずはイメージトレーニングからだ。寝ながら考える」
 古泉の小さなため息みたいな笑い声が耳をくすぐる。いい声だなと思う。どれだけ大勢の人間が騒いでいる中にあっても、この声だけはなぜだかすぐに聞き分けられるんだ。
「おやすみなさい」
 絶大な鎮静効果のある声とともに、マイナスイオンも真っ青の疲労回復効果のある指先がそっと俺の頭をなでた。ああだめだ、こりゃあ本当に一切抵抗できずに深い眠りの底へまっさかさまだ。
 そんなわけだから俺はそれから古泉がいつ部屋を出て行ったのかを知らない。何時間かして戻ってきたあいつが俺の耳もとでささやいた声をただ覚えているだけだ。

[20071025]