呪われし王の物語
呪いだ、呪いをかけられた!
これを呪いと言わずしてなんと言えばいいだろう。ほんのわずかな一言、音節の連なりにすぎないものが、俺の行動思考のすべてに絡まり、しめつけてくる。そこにはなんら超常的な力やオカルティックな原理などは必要ない。ごく普通の力しか持たないごく普通の人間の口から出た言葉がそのまま絶大な威力を持って作用する。
もっとも俺に呪いをかけた当の男は厳密には普通の人間ではなかったが、ごく限定された状況下を除けば一応普通のカテゴリーに属していると言っていいだろう。
そう、そいつはほかならぬ古泉一樹その人だ。
呪いの言葉はシンプルなものだったが、古泉はわかっていてその言葉を口にした。くそ、なんて意地の悪い野郎だ。あいつの頭が切れることは俺も渋々認めるしかないが、それをこんな方向で使わなくたってよさそうなものだ。
時間移動による眩暈の感覚を振り払うように俺は頭を揺り動かした。俺の枕の上から転がり落ちたシャミセンが毛を逆立てて俺に唸りをあげている。
四月某日金曜日の午後八時前後。ここは確かに俺の部屋だ。
SOS団最大の危機をなんとか乗り越え、ようやく安心できる場所へ帰還できたというのに、なんだって俺は新たな悩みの種を抱え込まねばならなかったのか。
それもこれもすべてはあいつのせいだ。
むやみに麗しく非の打ちどころのない男の顔を思い出して俺はむしゃくしゃを抑えきれなかった。風呂だ。まずは風呂に入って気持ちを静めよう。そしてそれから何をするかは寝ながら考えるとしよう。
五月某日の夜の空気は寒くもなく暑くもなく、湿度も低く、空には明るい月まで出ていて快適というほかはなかった。
俺たちは――すなわち俺と長門と朝比奈さん(小)と古泉は、ハルヒの家からの帰り道を淡々と歩いていた。
しばらくは誰もが無言だった。遠ざかりつつあるハルヒに聞かれることを警戒したわけじゃない。多分俺たちはそれぞれになんらかの感慨にふけっていたのだろう。この晩をもって四月の中旬に発生したひとつのトラブルにようやく区切りがついたのだった。
とはいえそれは俺以外の三人にとっての話で、俺に関して言えば区切りはまだまだ先だった。異空間で墜落死しかけ、さらに一瞬未来を垣間見てのち突然、ハルヒの寝室に放り出された俺には説明を求める権利があるはずだ。
「つまり、ここは俺にとって未来の世界ということだな?」
状況からそれくらいのことは推測できる。だからこれは質問ではなくあくまで確認だった。
「そうなりますね」
どこか楽しげに応えたのは古泉だった。おまえ他人事だと思ってるだろう、憎らしい。
いまさら時間移動のひとつやふたつで驚きやしないが(こんなことに慣れちまうというのも困ったものだ)、俺がこのままこの時間軸に居座るとあれこれ問題が生じるであろうことは想像に難くない。だいたい俺たちが先ほどハルヒに渡したプレゼントは過去の俺が用意したものだというじゃないか。今の俺にその記憶がない以上、そのできごとはこれから先に起こるんだ。つまり、俺はまた時間移動をしなければならないってことだ。今度は一ヵ月近くの過去に向かって。
もちろんそれには朝比奈さんの協力がなくては無理だ。無知で無力であることを逆に大きな力としている小柄な上級生は、ここで小さく挙手して俺に推測が当たっていることを教えてくれた。
なおかつ、俺がこれから過去に戻ることは既定事項であるとまで断言された。やれやれだ。
いろいろと面倒ではあるが、過去に戻ること自体に逆らう理由はない。この時間に留まるというのはすなわち、過去一ヵ月近くの時間に起きたであろう面白い経験のすべてを失うことに等しい。既定事項であろうとなかろうと、好んでそんな損失に耐える必要はどこにもない。
しかしながらこの『既定事項』という言葉の意味は少し考え直してみるべきだろう。既定というからには既に決定されていてどうあっても覆すことができない事象なんだとばかり思っていたが、ほんの数時間前(あくまで俺の体感時間では、だが)に、あの藤原が口走った一言をあいにく俺は聞き逃しちゃいない。
『既定事項を外れた……? バカな……』
あいつはそう言ったのだ。
既定事項は絶対じゃない。外れることもあるんだ。もっともそれは極々例外的で異常な事態ではあるんだろう。今回の一件みたいにな。それでもこの事実はわけのわからない『時間』という概念に対するひとつの示唆を与えてくれる。
未来はひとつではないし、分岐したり合流したりする、不安定で流動的なものらしい。そんな中で『既定』というのは、せいぜいのところ、起こる確率が非常に高いという意味しか持てないだろう。既定事項が起きなければあれこれ矛盾や困ったことが生じてきたりもするのだろうが、それすらもなんらかの形で帳尻があって、世界は安定してつづいていくだろう。そんな気がする。
既定事項ですらそんなものなのだから、それ以外の事象たるや許容されるあいまいさは相当なものであるのに違いない。
ということはだ。
過去を多少変えても現在が変わることはない、のかもしれない。
もちろんパラドックスが生じるような改変は論外だろうが、たとえば朝靴を履くときに右足から通したか左足から通したかというような些細な違いや、部室で古泉と対峙するゲームが花札かデュエルかといった違いは未来になんの影響も及ぼさないだろう。
俺がそんなことをつらつら考えているうちに古泉の話は勝手に進んでいた。
「それから一ヶ月前の僕たちにこの日のことを伝えるのを忘れないでくださいよ」
いたずらっぽく微笑むハンサムの顔を見ていたら、ふと魔がさしてよからぬことを考えついた。
もし俺がそれを伝えなかったらどうなる? ハルヒと一緒に転落したあと、未来へ来た事実などなく、そのまま部屋に戻っていたと証言したらどうなる? 長門がいる以上そんな嘘をついてもバレるのは間違いないが、もし長門が黙っていてくれたら未来は多少変わるだろうか。それともこの程度のことは誤差範囲だろうか。
「詳しい説明は過去の僕がしてくれますよ。実際、しましたからね」
楽しそうにそう話すと、ふいに古泉は表情を変えて俺の顔を覗き込んだ。
「どうしました? 上の空ですね」
「え、ああ」
口ごもる。いや、少し不穏なことを考えていただけで実行に移すつもりはない。俺だって詳しい説明を聞きたいし、サプライズイベントのごまかしもなく真夜中のハルヒの部屋でひとり対処を迫られるのも勘弁願いたい。
いらないところでだけ察しのいい古泉は、俺の顔を見て何度か瞬きをし、小さく「ああ」とつぶやいた。それからゆるやかに周囲を見回して、朝比奈さんや長門がそれなりに離れたところを歩いているのを確かめた。
「そういえば、こういう状況は初めてですね。今ここにいるあなたよりも僕のほうが相対的に未来に属しており、一ヶ月分多くの知識を有しているというのは」
なんとなくむかつくが確かにその通りだ。時間移動に関しちゃこれまで常に古泉は蚊帳の外に置かれていたからな。すべてが終わったあとで実はこうだったと説明される立場がよほど不満だったのだろう、とうとう立場を逆転できて、優越感と喜びがあふれ出しそうな笑みを見せやがる。素直と言えば素直なのだが。
「面白い実験を思いつきました」
「……なんだ」
本当は聞きたくなかった。嫌な予感がしたからだ。
「これからあなたは過去へ戻ります。そのときに僕らがどこで会合を持つのか……きっと、僕が何も言わなければ、あなたは自然に僕の記憶の中にあるのと同じ場所を選択するのでしょう。ですがもし、僕がそこは部室であったと証言し、あなたがあえて僕らを自宅へ呼んだ場合、矛盾が生じます。些細なことながらも過去は改変されてしまう。そのとき今の僕の記憶はどうなるのでしょうか。自動的に矛盾のないように修正されるのでしょうか。ではあなたの家で会合を持ったという記憶を持つ僕が、また同じようにあなたにそう告げたらどうなるでしょうか。あなたは今度は駅前の喫茶店で会合を持つかもしれません。そうしたらその先は……?」
一瞬めまいがした。古泉の疑問はよくわかる。よく似たことを俺も考えたからだ。過去改変はどこまでが許容され、どこまでが収束されるのか。改変された過去は未来にどの程度影響を及ぼすのか。
「俺にそれを試せって?」
結果が興味深くはあるがあまり乗り気はしない。だいたいこの状況は、古泉にとっては初かもしれないが、俺にとってはそうじゃない。あのクリスマスの少し前に起きた事件のことを俺はまだ忘れちゃいない。あのとき路上に倒れて死にかけていた俺が、未来の俺から言われたセリフを必死で覚えていたのは、その後できるだけ正確に再現したのは、まさに古泉が今提案しているような矛盾の発生を防ぐためではなかったか。
古泉は下顎に手をあて、少し考えるそぶりを見せた。やはり問題があると思い直してくれたのかと思ったが、直後に奴の浮かべた人意地の悪い笑みが、そうではないことを告げていた。
「いえ、会合の場所などでは面白くありませんね。せっかくあなたに対して予言者を気取れる稀な機会なのですから、ここはもっとドラマティックな場面を選ばなくては」
やばい、と勘が知らせたのに逃げなかったのはどうしてだろう。ひっそりと、ひどく大切な話をするときのような親密さで、古泉は俺の耳もとにささやいた。
「四月二十八日の午後八時頃に、あなたは僕とキスをしますよ」
……………………は?
予想外すぎることを言われてしばし思考が停止した。驚きすぎると声も出ないものなんだな。学習したよ。
……いやだからそうじゃなくて古泉よ、今何を言った。俺の聞き間違いでなければ、おまえはかなり頭がおかしいぞ。熱でもあるのか。病院行くか?
「そうですね、どこでとか、どういう状況でとか、あまり詳しく説明するのはやめておきましょう。あなたの行動の自由度を下げたくはありません」
俺の無言をどう判断したのか滔々と古泉は言葉をつないだ。
「僕の言葉をお疑いですか? ですがどれだけ僕が熱心に訴えようと、あなたには僕が嘘をついているのか本当のことを言っているのか見極めることはできないでしょう。あえて当日その時刻に、僕の予言を裏切る行動をとることもできます。その場合過去は改変され、未来もおそらくは変化を遂げる。あるいはさしたる変化もないまま元と同じ世界線に統合されてしまうのか。結果を知ることができるのはあなたひとりです」
古泉が話を終えるとふいに耳の痛む沈黙が訪れた。俺は何を返していいのかわからなかった。ただの悪趣味な軽口として流すには古泉の表情が真剣すぎた。最初の意地悪な笑みはすでにそこになく、得体のしれない悲しみだかせつなさみたいなものがその眼球のつるりとした表面に浮いている。
予言なんかじゃない、これは呪いだ。それ以外のものじゃない。
俺の思考停止した頭がしきりにがなりたててくるのは「呪いだ、呪いだ!」の一点張りで、だからどうしたらいいのかといった建設的な発想は一切浮かばない。いや本当にどうしたらいいんだ俺は。おまえは俺に何をさせたいんだ。
しかしそれを問い詰める前に俺たちは分かれ道にやってきた。呆然としながらも足だけは動かしていたようだ。朝比奈さんが心得た顔つきで微笑みながら近づいてくる。古泉は長門とともに右の道へ。俺と朝比奈さんは左の道へ。結局俺は古泉に何も尋ねることができなかった。
ひどい冗談だったと解釈して古泉の予言を無視することもできる。そして実際何も起きなければ俺は一ヶ月後――つまり今日、古泉を一発ぶん殴ってやるくらいのことは許されるに違いない。
だがもしもあれが冗談じゃなくて、本当に起きたことだったとしたら、俺の行動いかんによって未来は大きく変わってしまう……かもしれない。俺は選ぶことができる。自分の望むルートを実現することができる。
だが果たして俺はそうしたいのか。俺はどうしたいのか。
さあ、どうする?
[20110719]