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名前

 そういえばお前は一度も呼んだことないよな、と、帰宅途中の坂道で、俺はいささか突然思いつきを口にした。
「なにをでしょう」
 古泉はいつも顔にはりついている涼しい笑みでそう尋ねた。
「キョンってあれだ」
 俺はほとんど無意識的な動作で肩をすくめた。
 キョンなんて呼び名は少なくとも俺にとってはまったくありがたいものではない。恰好いいとは口が裂けても言えないし、第一由来がわかりにくい。
 それにだ。朝比奈さんみたいにふっくらしたマシュマロみたいな声でやさしく呼ばれるのなら、それがどんな名前だろうが、いっそものすごい汚名だろうが、甘んじて受けとめようではないかという気にもなるのだろうが、ハルヒみたいにどこぞの犬や猫でも呼びつけるようなノリでぽんぽん呼ばれたんじゃたまらない。
 しかし目の前のこの無駄にハンサムな男は、これまで一度もその名前で俺を呼んだことはないんだよな。まあ長門もなんだが。
 古泉はたいてい俺を「あなた」と呼ぶ。遠くから呼びかけるときや、どうしても必要な場合は苗字を使うが、その呼び名が用いられる頻度は著しく低い。自分で自分の本当の名前を忘れちまいそうなほどだ。
 あまりありがたくないキョンという名称を使わないでいてくれるのだから、俺は古泉に感謝したっていいくらいのはずだったが、おかしなもので、まったく呼ばれないとなると少し落ち着かない気持ちになる。
「呼んでみてもいいんだぞ」
「………僕が、ですか」
「そうだ。遠慮するな」
「でも……」
 妙な具合に古泉が消極的なせいで、俺はかえって意地になった。いいから言ってみろ、とまるで強要しているみたいな口調になるが、ここまできたら引き下がれない。ここまでってどこまでだとか、余計なツッコミを入れている場合ではない。
 古泉は形のよい眉をひそめ、しぶしぶといった感じで小さく言葉を口にした。
「キョン、くん………」
 俺はかたまった。耳慣れない響きがなんともむずがゆかった。しかしそれ以上に、急にかあっと頬に血を上らせて恥ずかしそうに目を伏せた古泉の姿に、なんとも言えない気持ちになった。ちょっと待て、俺のあだ名はそんなに恥ずかしいものなのか。放送禁止用語なみに口に出すのも耐え難いのか。じゃなくて、なんでお前はそんなに、そんなに。
 そんなに、いったいなんなのだろう。
 とりあえず、ふたりして赤くなって凍りつき、互いに見つめあっているというこの状況を俺は今すぐなんとかするべきだ。

[200707]