三月半ばの悲劇
ほんわりとやわらかな湯気を立て、ふたつのカップがテーブルに置かれた。ひとつは古泉の前にブラックコーヒー。そして俺の前に置かれたもうひとつはといえば、やたらと甘い匂いを立てて、白くて丸い何かがぷくぷく薄茶の泡の上に浮いている。
「……俺はカフェオレと言ったはずだが」
「ええ、確かにそう仰いましたよ、カフェオレと」
「じゃあこれはなんだ」
「マシュマロ・カフェ・モカです」
「なぜそんなものが俺の前に鎮座している」
「美味しそうだったものですから」
「じゃあおまえが飲めばいいだろう」
「甘いものはあまり得意ではないんです。ですが見た目が素敵だったので、つい買ってしまいました。あなたは甘いもの、お嫌いではないですよね」
そう言って古泉一樹はにこりと笑った。寸分の狂いもない鉄壁の笑顔だ。これに穴を開けるにはダイヤモンドカッターかレーザー光線が必要だろう。今こそ俺はあの馬鹿げた映画撮影時に朝比奈さんに付与された迷惑極まりないパワーがほしい。今すぐ目の前の男の笑顔をめっためたのぎったぎたに切り刻んでやりたい。
「勝手なことをしたのはわかっています。ですからこれは僕のおごりということで」
「余計悪い!」
俺が気色ばんで叫ぶと古泉はきょとんとした顔をした。これは本格的にわかっていない。俺が何をそんなに激昂しているのか、こいつにわかるはずがないのだが、そのことに胸をなでおろすこともできず、俺はひとりで葛藤した。
そもそもどうして古泉と一緒にカフェなんぞに入ることになってしまったのか。それは不幸な偶然だった。実に珍しいことに、日曜恒例の市内不思議探索において、俺は古泉と一緒のくじを引き当てた。男ふたりで真剣に不思議を訪ね歩くというのも異様な光景だ。俺たちは早々に適当などこかで時間をつぶすことにした。そんなときにふと目についたのがこのカフェだったというわけだ。
俺はまったく不注意なことに、今日が何の日であるかをころっと忘れていた。いや、一応覚えてはいたのだが、俺の肩にのしかかっていた重みはさきほど二手に分かれる寸前に、女子三人に小さな袋を手渡すことできれいに解消してしまい、もうひとつの危険性のことなど思い浮かびもしなかったのだ。
今日は三月の…半ばだ。それだけで察してほしい。
俺はまた不幸なことに、ほぼ一ヵ月前に自分が古泉宅に持っていったカレーのことを覚えていた。そこに含まれていた微妙に不穏な成分のこともしっかり覚えていた。
だが古泉はそんなことは知らないのだ。どれだけ鋭い味覚の持ち主だったとしても、さすがにカレーの中からあの味を抽出することはできまい。
だから俺は気にする必要はないのだ。古泉が俺にマシュマロ・カフェ・モカを奢ってくれると言ったからといって、そこに裏の意味などかんぐってはならない。意味などない。ましてや裏などあるはずがない。
だがしかし俺はどうしても抵抗感を拭い去ることができず、目の前に置かれたカップの中を凝視した。実際それは美味そうだった。そして確かに俺は甘いものが嫌いではない。
だがしかし。
「よし、じゃんけんだ」
俺が急に言うと、古泉はわずかに目を見開いて俺を見た。そんな表情をしていても憎たらしいほど整った顔だ。
「何のためのじゃんけんですか」
「おまえは俺にこれを飲ませたい。俺は飲みたくない。じゃんけんで負けたほうが飲むことにしよう。ちなみに俺はパーを出すからな」
睨みつける俺のまなざしを、古泉はいささかあきれたような顔つきで受け止めた。
「何を言い出すかと思えば」
「勝負を拒否しようってのか」
「いえ、そうではありませんけど」
ちなみに古泉はじゃんけんがものすごく弱い。訂正。じゃんけん「も」ものすごく弱い。ゲームと名のつくものすべてに弱いんじゃないかと疑っちまうが、それが対俺限定のことなのかどうか、まだ確かめたことはない。
考えすぎたあげくにこいつは必ずグーを出すはずだ。
「じゃあいくぞ、じゃんけん……!」
考えさせる間を与えまいと、俺は問答無用で拳を振り上げた。ぽん、の声と同時に古泉もまた右手を差し出す。案外律義だ。だがその手が作っていた形を見たとたん、俺は変な叫びを上げそうになった。
「ありえない!」
「……失敬な方ですね」
拗ねているのか面白がっているのか、その両方が混ざり合った表情で古泉はふっと鼻で笑った。
「こういうときにグーを出して負けつづけた何十回もの経験が、そろそろ逆をやってみろと僕にささやいたのですよ。それにあなたは本当は負けたいと望んでいたのではありませんか。あなただって僕の裏をかいて、宣言したのとは別の手を出すことだって可能でした」
「いやそれは、でも」
俺は言葉を呑み込む。古泉の無駄に理論的なんだか無意味な御託なんだかわからん話を聞いていると頭が次第に混乱してきた。
俺は負けたかった、のか?
じっと見つめたカップの中にもちろん答えなどはない。匂いが甘い。胸がもやもやとする。古泉の視線を感じる。額がじっとりと汗で濡れる。勝負に負けた以上は俺はこれを飲まねばならない。
平常心、平常心だ。こんなことに意味なんかないんだ。俺は自分にそう言い聞かせ、決死の覚悟でカップを持ち上げた。
マシュマロがたくさん溶け込んだそれは、ひどくやさしく甘い味がした。
[20080314]