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眼鏡、それが問題だ

 通学の時間帯がずれているらしく、俺と古泉はめったに朝から遭遇することはない。
 しかしこの日に限って出会ってしまったのは何かの運命だったのかそれとも呪いの一種だったのか――などという仰々しいことはこれっぽっちも考えず、俺は前方一メートルを歩いていた古泉に声をかけた。
「おはよう、いつになく今日は遅いじゃないか」
 俺の通学時間はいつも通りだからして、これは古泉のほうが遅れているのだと考えるのが順当だろう。優等生もたまには寝坊くらいするだろうさ。そうのんきに思っていた俺だったのだが、驚いた様子でふりかえった古泉の顔を彩っていた見慣れない物体に、俺のほうこそ大変たまげた。
 きらりと銀縁に朝の光が反射する。それは紛れもなく眼鏡だった。
「ああ、あなたでしたか。おはようございます」
「どうしたんだそれ」
 思わずまじまじと見つめてしまった。古泉はレンズの向こうでぱちりと長い睫を動かすと、ああ、とつぶやき、どこか後ろめたげな顔つきで眼鏡に手をやった。
「コンタクトをなくしてしまいましてね」
「おまえコンタクトだったのか」
 それすらも知らなかった。初耳だ。
「あえて話すようなことでもありませんしね」
 それはそうかもしれないが。
 このとき古泉はなぜか思案気に俺の顔を見つめた。
「あなたに眼鏡属性がないということは存じておりますよ」
 俺はぐっと言葉に詰まった。それは確かに事実だが、こいつに対して喋った覚えはない。特に大々的に公言もしていない。ということはこいつはそれを長門から聞いたか(可能性としては相当低い)、『機関』の非常識な諜報技術の賜物で、情報を得たに違いないのだ。
「おや、そんな怖い顔をしないでください。ご不快に思われましたか?」
「思われましたね」
「あなたが望むなら、僕はこの眼鏡を外すことも厭わない、と言いたいところなのですが」
 古泉はこちらが要求する前から勝手に眼鏡を外した。望んでないと言う暇もない。
 悔しいが非常にさまになっている動作で古泉は眼鏡を畳んで制服のポケットに入れた。
「ただ残念なことに僕の眼鏡は長門さんのものみたいに伊達ではないのでして」
「だからなんだ」
 俺の言葉に古泉はにこりと笑った。そのまま流れるような動作で顔を寄せてくる……って近い、近すぎる!
 俺たちのすぐ後ろを歩いていた見知らぬ女子が、きゃあっと妙な歓声を上げたので、俺は焦って古泉の肩を強く押した。
「こんな往来で何をやってるんだおまえは!」
「失礼、距離感がつかみづらいもので…」
 非常識にも程があるやたらめったらな近距離で古泉はささやいた。わざとなのか、本当に見えてないのか、どちらなのかわからない。
「やっぱり眼鏡はないほうがいいとか、おまえには言ってやらんから、さっさとかけろ」
 どすの効いた俺の言葉に、古泉は楽しそうに笑って身体を離した。鞄から取り出した眼鏡を再びかける。フレームレスの涼しげな眼鏡はこいつをより知的に見せる効果がある。
「これでよろしいでしょうか?」
「よろしいんではないか? 言っておくが、俺にお伺いを立てる必要はこれっぽっちもないからな?」
 古泉は軽やかに声を立てて笑った。なにやら微妙に腹立たしかった。
 さてここまでが朝のできごとだが、下駄箱のところでそれぞれのクラスに別れて後も、この日の俺はやたらと古泉を見かけることになった。やはり呪いだったのかもしれん。
 まずは一限目のあとの休み時間の話だ。何気なくトイレに立った俺は、廊下のところでばったりと古泉に会った。古泉の九組と俺の五組は階が違う。それなのに古泉がそこにいたのは、俺のクラスのある階に何か用事があったからだろう。別に俺に会いにきたってわけじゃない。
 廊下の奥の淡い暗がりの中からゆっくりと歩いてきた男の顔には黒ぶちの眼鏡があった。やはり見慣れない。知らない奴みたいで少し落ち着かない。
 古泉は俺に気がつくと軽く片手を挙げて挨拶したが、俺は肩をすくめてそのままトイレに駆け込んだ。なんとなく微妙に気詰まりだった。
 その次に古泉を見たのはクラスの窓からだ。俺の席は窓際にあり、校庭の様子が見下ろせる。ジャージでサッカーをやっている男子の集団があり、その中でひとり、華麗にボールを操りシュートを決めた奴がいるなと思ったらそれが古泉だった。
 本日は晴天なりで、爽やかに晴れた空の下、こんな遠距離からも、細身のチタンフレームが鮮やかに輝くのが見えた。古泉は俺が見ていることに気づかない様子で、一度も俺のいる窓のあたりを見上げなかった。
 いや、それが不満だとか言ってるわけじゃないぞ。
 次は昼休みだった。今日は母親の都合で弁当がなく、購買へパンを買いに行ったところ、そこでまたあの男と出くわした。
「おや、あなたも学食ですか。珍しいですね」
「いや、俺はパンだ」
「……それは残念です」
 なにやら妙に本気でがっかりしている様子だったので、なんとなく不憫な気持ちになった。よく見れば古泉はひとりきりだった。こいつはいつもひとりで学食で食ってるんだろうか。それも寂しい話だ。
「……たまには学食もいいかもしれんな」
 本当に口が滑ったとしか言いようがない。その日の昼食を俺は古泉と一緒にとる羽目になってしまった。
 休日の市内探索や部室のエンドレスボードゲームタイムのせいで、古泉と向き合って茶を飲むような場面に俺は慣れている。しかしこいつとふたりきりで――いや、もちろん食堂には飢えた野獣のような高校生がひしめいているのだが――SOS団の女子の面々がいない場面で、こいつと食事をするのは考えてみたら初めてだった。
 なんとなく奇妙にどぎまぎする気持ちを隠して俺は古泉の向かいの席に座った。
 俺は鶏のから揚げメインのA定食にしたが、何を思ったか古泉はかき揚げうどんなんぞを注文していた。おいおい、そんなもの頼んだら眼鏡が曇るぞ。
 しかし俺が忠告するまでもなく古泉もそんなことは知っていただろう。知っていて、まったく気にしていなかったのかもしれない。レトロな鼈甲の眼鏡のレンズが曇るにまかせて、行儀よく極太の白い麺をすすりこんでいた。
 おおこれは……曇ったレンズにいたずら書きをしたいという衝動に駆られる場面だ。「バカ」でも「キザ」でもなんでもいい。ちょっと手を伸ばして…………いやいや。冗談でも「スキ」とは書けない。あいにく俺にはな。
 古泉の食事風景を思わずじっくり見守ってしまったせいで、食べ終わるのがずいぶん遅れた。古泉が箸を置いたときには俺はまだ定食が半分くらいしか胃に収まっておらず、あわてて残りをかっこむことになった。
 その間、古泉は優雅にポケットから取り出したハンカチでレンズを拭き、曇りのなくなった状態のそれを再びかけた。丸っこい形の眼鏡もけっこう似合う。
「……見てんなよ」
「いつもよりよく見えるような気がします」
「じゃあ外せ」
 食べてるところをじっと見られるのは落ち着かないものだ。俺のぶっきらぼうな返事になぜか古泉はほがらかに笑った。
 午後になっても古泉との異常な接近遭遇率は変わらなかった。移動教室の途中で廊下ですれ違った男は教育ママみたいな端の釣りあがった眼鏡の向こうからしきりにアイコンタクトを送ってきたが意味がわからなかった。
 放課後、いつも通りに部室に向かうと、そこでは古泉が囲碁の教本を開き、青みを帯びたセルフレームの眼鏡をかけて読みふけっていた。
「ハルヒがなんて言うかな」
 思わず口に出してしまったが、ハルヒには別段眼鏡に対する過剰な思い入れはないはずだ。長門が急に眼鏡をやめたときも、一応気づきはしたが、特に何も言わなかった。
 古泉は視線を上げて俺を見ると、口もとだけで薄く笑った。
「涼宮さんは僕の眼鏡などには関心がないでしょう」
 その通りだろうが、その見透かしたような口調が微妙に癇に障った。
 実を言うと、部屋には俺より先に長門が到着していたのだが、元眼鏡っ子であるヒューマノイドインターフェースは、まるっきりいつも通りに窓際の席で本を読んでいるだけで、古泉の眼鏡に一切注意を払った様子がなかった。こいつにも眼鏡属性はないらしい。
 そして、俺に遅れること数分後、部室には朝比奈さんが到着したのだが、これまた眼鏡については完全にスルーだった。見えてもいないのかもしれん。
 そのお着替えタイムの間、俺と古泉はふたりきりで廊下に立つことになるのだが、古泉は何がおかしいというのか急に小さく笑い声を立てた。
「僕のクラスの方たちも、この眼鏡については特に気になさった様子がありませんでしたよ。よほど顔になじんでいるようで」
 そうだな。似合ってないとは言わん。
「たとえばにんじんが嫌いな人は、ほんの小さな欠片でも料理に含まれていたら、敏感にそれに気づくでしょう。あなたの過剰反応もそれと同じものなのでしょうか、それとも……」
 なんだ、何を言いたいんだおまえは!
 しかし無理やり言葉をさえぎる必要はなかった。そのとき華々しく、いや荒々しく、ハリケーンみたいな勢いで、その場に我らが団長が到着したからだ。
「あらなに、みくるちゃんまだ着替えしてんの? 入るわよー!」
 中に向かって声をかけると、了解の返事も聞かずにハルヒは部室へ飛び込んでいった。実に速やかに扉は閉められたため、俺と古泉には中を覗く隙はなかった。本当だ。
 古泉が「ほら、思った通りでしょう」と言わんばかりに、こちらに流し目を送ってくるのがわずらわしい。ああそうだな。ハルヒもまったくおまえの眼鏡が眼中になかったようだな。あいつの場合はちゃかちゃかしているから、単に見落としただけかもしれないが。
 それからすぐに部屋の中からは入っていいわよの声が聞こえて、俺と古泉はおとなしくそれに従った。ああかったるい。もううんざりするほどやったオセロゲームをまたくりかえしているのだが、正面に座っている男の顔にオプションとして付属しているものが気になってたまらない。そのせいだろうか、ありえないことに古泉相手に一勝二敗の記録を残してしまった。なんたる屈辱だ。
 まったくもって無為にだらだらと時間をつぶし、ハルヒがふと窓の外を見て、今日はそろそろお開きにしましょうと言うと帰り支度が始まる。長門は本を閉じ、朝比奈さんはまたお着替えをする。
 五人がぞろぞろと長い長い坂道を歩くという習慣は、もう身体にしみついちまっているようで、苦痛でもなければ恥ずかしくもない。なんとなく取り残されて古泉とふたりで最後尾を歩くことになるのもなかば慣例だ。
「雪辱を果たすために僕の部屋でオセロの再戦をするというのはいかがですか?」
 古泉がふと顔を寄せ、響きのいい声で話しかけてきた。顔が近いとか言う気にもならない。だがそのピンクゴールドのフレームはいまひとつ似合ってないと思うぞ。
「わかった、行く」
 俺が応えると古泉は素で驚いた顔をした。自分から誘っておきながら、こんな返事は想像したこともなかったと言わんばかりだ。腹立たしい。
 なぜだか俺たちは互いに緊張しながら、無口になって、残りの道を歩いた。ようやく駅に到着し、それぞれの帰り道に別れたあと、俺は自転車を引いて古泉と一緒に歩いた。
 そこでも俺たちはろくに会話をしなかった。コンビニに寄ることもせずに、古泉の進む方向にただついていった。よく考えたら俺は古泉の家に行くのが初めてだった。
 わけもなくわあっと叫んで走り出したいような、やっぱり帰ると言って自転車に飛び乗りたいような、そんな気持ちがした。しかし俺は結局黙りこくったまま古泉についていった。
 ここですと古泉が言ったのは、平凡を絵に描いたようなアパートの前のことだった。へえとしか感想が出なかった。二階の角部屋に案内された。古泉の手が鍵を回すのを、奇妙に息を詰めて見守った。
 部屋の中まで実に平均的だというのは、納得するようでいて、本当は意外なのかもしれない。ちっとも平均的でないこいつの日常が、こんな普通極まりない部屋の中に押し込められているというのは妙な気がした。器と中身が合ってない。そんな感じだ。
 しかし表面をどれだけ整えようと、こいつは超能力者で、得体の知れない組織に属していて、エージェントとしてSOS団に潜入している。俺はそのことを忘れてはいけない。
 それとだ。
 部屋の明かりを点けて、俺を導き入れるなり、おもちゃのようなオレンジと黄緑の縁のサングラスをかけた古泉の顔から俺は眼鏡をむしりとった。
「おまえはいったい何本眼鏡を持ち歩いてんだ!」
「おや、気づいておられましたか」
「気づくだろうが普通!」
「そうとも限りませんよ。明らかに目を留めてくださったのはあなたをおいてほかにはいませんでしたから」
「それは偶然だ!」
「あなた本当は、眼鏡属性があるんじゃないですか?」
 にこやかに微笑まれて、ぐっと言葉に詰まったのはなぜだろう。
「そ、そ、そんなわけがあるか!」
 焦って応えはしたが、次にはどうして俺はこんなに慌ててるんだと頭を抱えたくなった。そんな俺の心理も知らぬ気に、古泉はさらなる質問を重ねてくる。
「ひとつお聞きしたいのですが、あなたはどの眼鏡が一番お好みでしたか?」
 真顔で尋ねられ、もはやこれはどうしたもんかね。まじめに返答すると、俺がどれだけちゃんと古泉の眼鏡を見ていたかがばれてしまうという罠だ。
 やっぱり眼鏡はないほうがいいぞとここで、言ってしまえれば楽なのだが。

[20091129]