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MOTEMOTE*HOMOKILLER

 ある朝目が覚めると世界が一変していた、なんてのはお話の中じゃよくあることだが、あいにく俺の周囲でも比較的よくあることなんだ。まったく不条理極まりない。
 その日の変化は俺を中心として発生していたらしいが、目が覚めて、もそもそと朝食を食って、半分閉じた目で自転車に乗って家を出たときの俺にはまだまったくピンと来ていなかった。
 いつもの駅前に自転車を停めて、毎朝の強制ハイキングコースを登り始めたあたりで、ようやくじわじわと妙な気がしてきた。
 なんかな、周り中からえらく熱い視線を感じるんだな。
 視線てのは実は物理的な圧力をともなうものなんだ。俺同様に通学中の皆様方が、ひどい奴になるとぐるんと身体を反転させてまでこちらに視線を送りつけてくる。
 最初は何か俺に変なところがあるのかと疑って(ズボンを履き忘れてるとか猫耳が生えてるとか異臭を漂わせてるとか)、慌てて全身を点検してみたが特におかしなところは見当たらない。
 なぜだ。どうして俺はこんなにじろじろ見られてんだ。それもなんだか異様な熱気のこもったじっとりねっとりとした視線なんだ。
 そして、なんでそいつらは男ばっかりなんだ。
 なにやら怖気を感じながら、俺はかつてないスピードで坂道を登り、北高の一年五組の教室まで到達した。ここまで来れば友達もいる。何か起こっても助けが呼べると判断してのことだ。
 しかし。
「キョン」
 教室に入っても、俺をとりまく気味の悪い熱い視線はなくならなかった。それどころか俺の顔を見るなり寄ってきた国木田が、ただでさえでっかい目をいつもより二割り増しくらいに見開いて、まじまじと俺を見つめて黙り込んだ。
「な、なんだよ」
「……キョン」
 なんだって名前を呼んだきりまた黙るんだ。その微妙に潤んだ目はどうしたことだ。
「よっ!」
 俺より遅れてやってきた谷口なんかは、入り口付近で立ち止まっている俺の背をどしんと叩いたところで、急に目つきがおかしくなった。
「キョン、おまえさあ……」
 古泉じゃあるまいし、なんでそんな鼻先がくっつきそうなくらいに顔を近づけてくるんだ、匂いをかぐな、舐めるように見るな、顔を赤くするな、息が荒いのはなんでだ、気色悪い!
 予鈴が鳴ったのを幸いに、俺は窓際の自分の席へとダッシュした。視線はまだ追いかけてくるが、飛びかって抱きついてくるほどの奴はいない。……単に牽制しあってるだけでないとは言い切れないが。
 くそう、ハルヒ、どうせ原因はおまえだろう。なんだかよくわからんが、常識を軽く飛び越えた珍妙な事態を引き起こすのはおまえだと相場が決まっている。今回はおまえは何を願ったんだ、俺を男にもてもての身体にしてどんないいことがあるっていうんだ。
 と、はっきり言うわけにはいかないが、それでも文句のひとつも言ってやらねば気がすまんと意気込んだ俺だったが、肩すかしなことにハルヒは席にいなかった。どこへ行っちまいやがったあの迷惑女。
 そうこうしているうちに、担任の岡部がホームルームにやってきた。教壇に立ってぐるりと教室内を見回す。
 その視線がホーミングロケットの照準みたいに正確に、ぴたりと俺の上で止まった。
「……後で職員室まで来るように」
 絶対行くもんかと俺は心に誓ったね。

 一限目の授業を針のむしろに座ってる気分で耐え抜き、休み時間中はひたすら窓の外を見つめて何にも気づいていないふりをして、二限目の授業のなかばで気がついた。次の時間は体育だ。着替えがある。男子生徒ばかりの中で着替え…しかも体操服に。嫌だ、絶対に嫌だ。激しく身の危険を感じる。
 そうだ早退しよう。
 俺は決意を固めた。どうせこんなわけのわからん状況は一日も経てば終了するに決まっている。ハルヒの気まぐれぶりを考えると、継続時間はその程度だと思って差し支えあるまい。一日我慢すればいいんだ。家の中でだらだらゲームでもしてりゃいい。仮病だろうがなんだろうが使って俺は帰るといったら帰る。それしかない。
 ちなみに二限になってもハルヒは登校していなかった。理由はわからん。
 さあ、問題は手順だ。休み時間になると同時に帰ろうとすると、引き止められたり追いかけられたり、いらない煩雑な手間が発生しそうな気がする。ここはいっそ、授業時間内の今のうちに保健室にでも行くふりをして、そのまま帰っちまうってのはどうだろう。お、それいいんじゃないか。すごくいい気がするぞ。だったら善は急げだ。
「すみません、腹痛いんで保健室行ってきます」
 すかさず手を上げ、堂々と言った俺は偉かった。幸いなことに教師は女だった。あら大丈夫? 気をつけてねと、あっさり許可が下りる。
「俺がつきそいを」
「いらんいらんいらん!」
 目をぎらぎらさせて立ち上がりかけた谷口ほかクラスの男子多数を必死で牽制し、俺は腹を押さえる演技をしながら教室を走り出た。財布と携帯と自転車の鍵だけはポケットに入れたが、鞄は置き去りにするしかないな。
 廊下に出てほっとしたのはいいが、さすがにまったく保健室に顔を出さないというのはまずいだろう。記録が残るしな。薬でももらって、それから帰るとするか。
 腹を決めて俺は一階にある保健室へと向かった。途中、前を通りすぎた授業中の教室の数々は、俺に奇妙な感慨を抱かせた。俺だけ世界が違って、透明人間にでもなったみたいな。違うルールで動いているみたいな。
 閉鎖空間にいるときの古泉はこんな気持ちなのかな。
 一瞬気の迷いのようにその顔を思い出し、俺は慌てて頭をふった。そんなことは今はどうでもいい。それに古泉というのは今一番会いたくない相手だ。ただでさえ顔が近いあいつがこの状況下でどういう態度を俺に見せるのか、恐ろしくて想像もしたくない。
 足早に階段を下りようとしていると、用務員のおじさんとすれ違った。おじさんというからには男だ。まずいと一瞬思ったがどうすることもできなかった。男は階段を二、三段進んだところで足を止め、それから無言でふりむくと、俺のあとをついてきた。ヒー!
 さらには急に嫌なことを思い出した。
 うちの保険医は……男だ。
 なんだろう急に寒気がしてきたな。あながち体調不良は仮病でもなんでもないかもしれん。もう保健室なんかに寄るのはよして、まっすぐ帰ったほうがいいんじゃないかな、ああそうだ、それがいい。
 俺は目的地を正面玄関に変更し、ほとんど走るようなスピードで階段を下りた。
 おいおいおいうしろからついてくる足音がどんどん迫って来てるんじゃないのか。それになんか増えてる気がするぞ誰が増えたんだどこから湧いて出たんだしかし確認するためにふりむく度胸がない。
 タスケテクレー!
 真剣に心の中で絶叫しながら無人の廊下を駆け抜けていると、なんでだろう、こんな時間だというのに、明らかに北高男子の制服を着た人影がひとつ、正面からやってきた。
 なんたるバッドタイミング、前門の虎に後門の狼とはこのことだ。
 古泉だった。
 急ブレーキをかけようにもどうにもならない。隣を駆け抜ければいいのか、しかしタックルでもかけられようものなら一巻の終わりだな、うむ、なんてことを妙に冷静に考えていた俺の目は、古泉が俺の姿を目にして立ち止まり、怪訝な表情を浮かべるのを捉えた。その視線は次に俺の背後に迫りくる集団に向けられ、瞬間的に研ぎ澄まされた鋭いものに変化した。
 あれ、なんだか思っていたのと反応が違うぞ。
 古泉は俺をかばうように前に進み出た。偶然近くにあった無人の視聴覚教室の扉を開けて、俺を引き込む。ぴしりと閉じられた扉は鍵もかかっていないごくありふれたものだったのに、ひどく安心感があったのはどうしてなんだろうな。
「……何があったんですか」
 尋ねてくる古泉の声は平静だった。少し硬いが、それは外でうろうろしている足音を警戒してのものだろう。不必要に顔を近づけてくることもなく、息を荒くすることもなく、目だってぎらぎらしていない。普通だ。いつもどおりの古泉だ。
 俺は安堵に膝の力が抜けそうになった。
 説明するのも馬鹿馬鹿しい今朝からの事情を語ると、さすがはこいつもSOS団で無駄に鍛えられちゃいない、あっさり納得し、腕組みをした。
「なるほど、涼宮さんが。それなら一日も経てば元通りになる公算が高いでしょう。あなたの仰るとおりです。それではこのまま帰宅を?」
「ああ、そのつもりだったんだが」
 廊下の気配に耳を澄ましながら俺は途方に暮れた。こんな人気の少ない場所でこんなことになるんだったら、帰り道の途中も不安だな。来るときは気づかなかったが、通学路の周囲にだって民家はあるし、駅前から家へのルートも人の多い場所を通る。自転車で突っ走れば平気だろうか。
「よろしければ僕がご自宅までお送りしますが」
 俺の不安な表情を的確に読み取ったのだろう、古泉がやさしげな声で提案した。
「おまえは授業があるだろう」
「あなたの身の安全のほうが授業なんかよりずっと大切ですよ。それにそもそもが遅刻でしたから」
 そういえば古泉は肩から鞄を提げている。ちょうど今登校したところだったらしい。
「なんでこんな時間に」
「少々所用がありまして」
 にこやかに古泉は笑みを浮かべてみせる。鉄壁の不可侵バリアだ。俺には詳しく話せない、機関がらみの何かがあったということなんだろう。
 面白くない気はするが、今だけはこの偶然に感謝したい。
 だがどうして古泉だけはいつもどおりなんだ。いやもちろんそのほうが助かるわけだが、わけがわからん。ハルヒは何を考えてるんだ。古泉を除外したのはどういう条件なんだ。
 まあいい、今はそんなことを気にしてる場合じゃない。
「頼む」
 もはや恥も遠慮もへったくれもなく、俺は古泉に頭を下げた。古泉は涼やかに微笑んで、うやうやしく俺の手をとり、「承知しました」と言った。

 というわけで、それから約一時間ほどもかけて俺と古泉は俺の自宅へたどりついたが、その間に起こった様々なできごとについてはあまり語りたくない。しかし俺は少々古泉を見直した。いやかなり見直したと言っていい。こいつは閉鎖空間の外では特別な力は持っちゃいないが、身体能力の高さと悪辣なくらいの智慧の回り方、そつない態度と口のうまさはなかなかのものだ。それだけで十分特殊技能と言っていいほどだ。
 と散々古泉を褒め称えておいてなんだが、家へ帰りついた直後は精神的にも肉体的にも疲労しきっていて、それどころじゃなかったね。母親も出かけて無人になっている家の玄関の扉を開けて中へ入り、そこでやっと大息をついて、理性を取り戻したんだ。
「助かった」
 はあと深く呼吸をすると、背後でカタンと音がした。
 俺はふりむいた。そこには当然のことながら古泉がいて、内側から扉に鍵をかけていた。
 こちらへ視線をよこした古泉の表情にはやさしげな微笑がいつもどおりに浮かんでいる。肩の鞄を廊下に置いて、なぜか自分ののネクタイをゆるめて、俺に近づいてくる。
 顔が近い、のはいつものことだ。
 ふっとくちびるをかすめた息が熱いのも、まあいつものことだ。
 目は特別にぎらぎらしちゃいないと思うが……どうだったかな。いつでもこんなものだったかもしれん。笑いでごまかしちゃいるが、どことなく真剣で、追い詰められている感じがする。
「それではお礼をいただきましょうか」
 ひどくきれいな顔で古泉は微笑んだ。
 つまりはなんだ、古泉は決して例外ではなくて、単にわかりにくかったというか、日頃から耐性がついていただけだったというか、そういうことか。
 ということをいまさら理解しても遅かった。かなり、相当に遅かった。
 赤ずきんちゃんはよりによって一番危険な狼さんをおうちに引き入れてしまいましたということだ。
 めでたし、めでたし。
(全然めでたくない!)

[20070928]