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おかえりなさい

 決して新しいともきれいとも言えないアパートの二階に古泉は住んでいる。そのやはり決して広いとも片づいているとも言えないアパートの部屋に、なぜだか俺は最近いりびたってしまっている。
 俺たちには共通する趣味なんか何もなく(言っておくがボードゲームは古泉の趣味であって俺のではない)、また共通の話題はありきたりの学校行事やSOS団に関することくらいで、部室で話せば十分だろうというのに俺はわざわざ古泉の部屋へ行く。
 ときおり本当に話すことがなくなって、思い思いにテレビをぼんやり眺めてみたり、宿題をしたり、インターネットをしたり、どんどんひとりでいるときと時間の使い方が変わらなくなったりもする。それでも、家族と一緒にいるときみたいには、まだ緊張感をなくしていない。
 特に話しかけるわけじゃなくても、俺はそこに古泉がいることをわかっていて、それはおそらく古泉のほうでも同じだろう。ふとした瞬間に目が合って気恥ずかしい思いをしたり、そこから何かが始まったりもする。もちろん何も始まらないときもある。
 ただその空間にいることに気がついたらなじんでしまっていた。訪ねていくことに次第に理由が必要なくなって、特に約束をしているわけじゃなくても、遠慮しないで扉を叩いていいのだと思うようになっていた。
 だから夏休みのある暑い日に、俺がコンビニで買ったアイスを持って古泉の部屋を訪ねたことに意味なんかない。
 階段を上る足音が聞こえていたのか(実に老朽化した建物だからして、俺が普通に歩くだけで金属製の階段も廊下もみしみし音を立てやがるのだ。うっかり関取なんかが訪ねてきたら床を踏み抜くかもしれん)、古泉は俺がドアベルを鳴らす前に、中から扉を押し開いた。
「おかえりなさい」
 見慣れた笑顔であいつが口にした言葉に、俺は一瞬とまどった。
 当然のことながら俺は古泉と一緒に住んではいない。いったん遊びにきてから一時中座していたのでもない。
 俺はここへ「やってきた」のであって、「帰ってきた」のではない。
 俺のきょとんとした顔を見て、古泉ははじめて己の失言に気づいたようだ。あ、と言いたげな形に口が開いて、しかしそこから声は出てこなかった。そのままわずかな困惑を顔に浮かべて黙り込む。
 おいおい、そこで黙り込んじゃだめだろう。口も開きっぱなしでせっかくのハンサムが台無しだ。お前少し耳が赤くなってるぞ。しかしここは暑いな。じりじり背中から陽がさして、アイスが溶けてしまいそうだ。部屋の中は涼しいんだろうが、早く俺をそっちへ入れてくれ。
 別に暑さのあまり細かいことがどうでもよくなったというわけではないが、
「ただいま」
 気がつくと俺は自然にそう言っていた。
「アイス買ってきてやったぞ」
 ぐいとコンビニの袋を突き出すと、古泉は少しばかり目を見張り、それから嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
 アイスの分の重みは俺の手からつれさられ、背中で扉が閉まって、涼しい空気に包まれた。ここは俺の部屋でもなんでもないのに、どうしてだろうか、帰ってきたって感じがする。
 だからきっと「ただいま」っていう挨拶は、俺にとっても間違いじゃない。

[200708]