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さて問題です

 ん、と鼻にかかった声がもれたのに気づいて、俺は必死で気持ちを引き締めた。薄目を開いてみれば、距離が近すぎてぼやけながらも、嫌でも端整とわかる顔がやわらかく瞼を下ろしてそこにあった。
 ああこいつ、こういうときには少し眉をひそめて、苦しげな顔をするんだよな。
 そんな新発見というわけでもないことを改めて思った。
 噛み合わせた咥内で立つ濡れた音からは耳をふさぐこともできないし、次第に陶然とぼやけていく思考もすでに何度もなじみのあるものだ。
 俺は古泉とキスをしている。
 誰もいない部室がその場所に選ばれたのはただの偶然で、特別にスリルを求めただとか、背徳感を楽しんでいるだとかいうことはない。鍵は一応かけてあるし、カーテンも引いた。女子たちはもう帰った後だ。たまたまお膳立てが整っていた。それだけだ。
 古泉はなにやらキスが巧い、気がする。
 ほかに比較対象がないのでこれは相対的基準ではなく絶対的基準というか要するに俺の主観にすぎないのだが、少なくとも俺を気持ちよくさせることには長けている、なんて言うと俺がすっかり古泉にまいってしまっているみたいで大変不本意なのだがこの際部分的には認めよう、俺は古泉とするキスが好きだ。
 しかしやたらとねちっこく長いのだけは少しばかり閉口する。
 ギネスに挑戦でもするつもりなのかと一回訊いたら、滔々と現在のキスの最長記録は何分何秒で、それにはこれこれこうの条件があってと、いらない説明を果てしなくされたことがあるから同じ愚はもうくりかえさない。
 やめさせたいならわかりやすく行動で示せばいいのだ。
「……もういい」
 密着した胸のあいだに腕を割り込ませて押しのけると、古泉は案外おとなしく唇を離した。俺の息がすっかりあがっているのに、古泉はそうでもない様子なのが腹立たしい。少しふらつく身体を机に手を突き支えると、古泉は明らかに面白がっている目をして俺の身体を抱き寄せた。
「降参、ですか?」
「降参てなんだ、俺とおまえは何か勝負でもしてたのか、というか耳元でささやくのはやめろ、わざとだろ」
 俺が一息でまくしたてると、古泉の軽やかな笑い声が鼓膜をふるわせた。だから耳元はよせってのに。
 救い難いことに俺はこの甘ったるいムードという奴が嫌いではない。全身がむずがゆく、ときどき大声でわめきだしたくもなるが、それでも何度も同じことをくりかえしてしまうというのは一種の中毒なのだろう。キスだけで満足できるわけがないとわかっているのにやめられない。この後どうしようといまさらながらに悩んでいる。この場所でつづきをってのはさすがにごめんだ。そんなことになったら明日以降この場所に冷静な顔でいられる自信がない。となると、残りの選択肢はおのずと限られてくるわけだが。
 なんてことを俺がひそかに考えていたときだった。
「さて問題です」
 ふいに、古泉の耳ざわりのよい声が、あれほど言ったのにまた俺の耳元でささやいた。
「キスをすると口内の細菌が一秒間に約二億個、互いの口の中を行き来するそうです。それでは僕たちのあいだではいったい何個の細菌が行き来したことになるでしょうか。ああ、数字はのべでかまいませんよ」
 …………はあ?
 俺は本気でぽかんとした顔をしていただろう。予想外にもほどがある質問だった。これまでの流れとなんの関係があるのか……いや関係は明らかだが、それにしたってそんなことをこんなときにわざわざ尋ねる奴があるか。だいたいおまえはさっきのキスの秒数を計ってたとでも言うつもりか。言うのかもしれんな。こいつならやりかねん。ハルヒの千本ノックを数えてたくらいだしな。だがそれはどう考えても俺の気持ちを明るくさせない豆知識だ。細菌を交換できて嬉しいって喜ぶ奴がこの世にいたら顔を見てみたいね。できれば知らずにいたかった。ああ、いたかったさ。
 俺が、これからおまえの部屋に行くべきか否かで真剣に悩んでいたときに、おまえときたらなんだ。
「そんなもん、億でも兆でも知ったことか!」
 俺は思い切り古泉の足を踏みつけた。古泉は無言でのけぞった。いい気味だざまあみろ。
「おまえとは当分キスはしないからな!」
 言い捨てて俺はひとり部室を出た。
 当分てのが我ながら弱気だったな。どうせなら一生と言っておくんだった。
 反省を胸に廊下を歩き出した俺を、うしろから慌てた足音が追ってきた。
 今日は健全に帰宅できそうだと思ったのだが、どうやらそういうわけにもいかないらしい。

[20080406]