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うさぎ、うさぎ

 しまった、うっかり皮を全部剥いてしまった。
 僕はそのとき、内心激しい焦りを感じていた。
 キョンという名で呼ばれることの多い彼が階段から転がり落ちて頭を打ち、入院してはや三日になる。
「機関」の関係する病院に手を回してうまく個室を押さえられたのはいいが、なかなか目を覚まさない彼に、僕がひとりで二十四時間つきそっているわけにはいかなかった。
 ひどくショックを受けたらしいSOS団団長の涼宮ハルヒは頑として病室を離れることを拒絶したが、それは仕方がないとしても(彼女の意思を妨げようなんて、爆走してくる10トントラックの前に素手で立ちふさがるようなものだ)、その他の団員たちはとりあえず時間交代で、彼の目覚めを待とうということになった。
 光栄なことに、彼がようやくその目を開いたときに、ちょうど病室にいたのは僕だった。頭を打ったためだろうか、彼は少し妙な様子だったが、きちんと僕を見分けてくれた。僕はそれだけで泣きそうになった。
 思いのほか自分は彼の意識が戻らないことにダメージを受けていたらしいとようやく気づいた。
 彼がまだ目を覚ましもしないうちから、しゃりしゃりと誰が食べるのかも不明なリンゴを剥いていたことも、思えば自分の冷静さを保とうとする、なけなしの努力の表れだったのかもしれない。眠りつづける彼の顔を何もしないで見ていたら、悪いことばかりを考えてしまいそうだったから、自分をごまかすためにせめて手でも動かして、ほかに集中できることを探したのだった。
 しかしいざ彼が目を覚ました今は、別の理由で僕はリンゴを必要としている。放っておいたら僕は嬉しさのあまり泣きだしてしまいそうだったから、さすがにそれは僕らしくなく、恥ずかしく、また許されないことだろうから。
 だから胸の中にふくれあがる感情から意識をそらすために僕はもうひとつのリンゴを手にとった。
 古泉一樹らしい涼しい微笑を保つことは案外難しくない。それはもはや自分の習性みたいなもので、放っておいても自然にこの顔の表皮の上に形作られ定着し、引き剥がすほうがよほど難しい。彼には嫌がられがちなこの表情だが、本音を隠すのには都合がよくて重宝している。
 ただし、ひとつ忘れていたのだった。僕の内心が不用意にそのまま現れてしまうのは顔ではない。
 たとえばそれは手だ。
 ウサギリンゴを作ろうと、本当は僕は思っていたのだ。古泉一樹というのは、器用に苦もなくそんな細工を短時間のうちに施してしまうようなキャラクターだと理解している。実際僕は器用だし、料理なんかほとんどしたことはないが、リンゴの皮剥きくらいは余裕でできる。
 しかし。しかしだ。
 逆に器用なことが災いしたのかもしれない。彼との話に気をとられ、というより彼がその場に彼らしく存在していてくれるだけで僕は舞い上がってしまい、はっと気がつくとリンゴの皮をくるくると丸ごと剥いてしまっていたのだった。
 皮を全部とってしまったら、ウサギリンゴにならないじゃないか!
 僕はひそかに青ざめた(でも顔には出ていなかったと思う)。
 ウサギリンゴに皮の部分は欠かせない。毛細血管に似た繊細な網目模様がウサギの耳の内側を連想させて、それがほの白いりんごの果肉につつましやかなエロスと、脆さ、残酷さ、いとけなさを演出する。
 それなのにああそれなのに皮がないなんて、僕はいったいどうしたらいいんだ。
 僕は激しく動揺した。せっかくきれいにセットした髪をかきむしりたいくらいに絶望した。しかしそんな姿は古泉一樹らしくない。絶対に違う。こんなとき、常にそつなく冷静なエスパー少年古泉一樹はどういう行動をとるべきか。
 ウサギ。そうだウサギだ。もう皮を耳に見立てた普通のウサギリンゴでなくてもいい。ウサギであればなんでもいい。
 僕は必死で冷静さを装いながら、剥きたてのリンゴを見つめた。そうだこの純白の果肉を真っ白なウサギに変身させてやればいいのだ。
 思い立ったが吉日という言葉もある。僕はその瞬間から一心不乱にリンゴを刻みはじめた。自分の手の中にあるのが果物ナイフで、彫刻刀じゃないのが非常にもどかしかった。我が手に彫刻刀を! それかノミとヤスリを!
 しかしないものは仕方がない。ここにあるものだけでなんとかするのだ。僕にはできる。できるはずだ、大丈夫、自分を信じろ一樹。
「……古泉?」
 いつのまにか真剣になりすぎて彼の話をほとんど聞いていなかったらしい。彼は不審そうな顔をして僕を見つめていた。僕はその彼にむかって晴れやかに、皿に乗せたリンゴを差し出した。
「どうぞ。できましたよ」
 なぜか彼は絶句したが、あまりの達成感に僕にはもうその理由を推察している余裕はなかった。
 実に写実的にうるわしく仕上げられた雪白のウサギの彫刻が、そこには瑞々しく完成していたのだった。

[20070729]