TEXT

本を読むのは好きじゃない

 冬の日は落ちるのが早い。『彼女』が正面玄関に姿を現したときには、周囲はすっかり真っ暗になっていた。
「あら、偶然ね。一緒に帰りましょうか」
 そう言ってわたしが隣に並ぶと、彼女は少し困ったような表情で、眼鏡の奥の目を一度瞬かせた。
 彼女にはきっと、わたしの言葉が嘘であることがわかっているだろう。偶然なんかじゃない。わたしは彼女の帰りを待っていた。一緒に帰れるように時間を調節していた。
 彼女とわたしは同じマンションに住んでいる。どのみち帰り道は同じだったから、たとえ彼女が否と返事をしても、わたしは彼女と一緒に歩くことになる。だけど彼女は否とは言わない。ショートカットの小さな頭をほんのわずかに上下させ、わたしに承諾を与える。
 そうしてわたしたちは一緒に急な坂道を歩く。毎日のように。
「誰か部員は入ったの?」
 わたしの質問に彼女は小さくかぶりをふる。
「じゃあまだ文芸部員はあなただけなのね。あんな埃っぽい部屋で、毎日ひとりきりで本を読んでいるだけなんでしょう? それって何が楽しいの? 本を読むだけなら自分の家でもいいじゃない」
 彼女との会話は主にわたしの一方的な喋りで成り立っている。今日のこれは少し棘のある言葉だったかもしれないけれど、間違ったことは言っていない。本当にわたしには疑問だった。彼女が文芸部というほとんど名ばかりの部で無為な時間を費やすことにどんな意味があるというのか理解できない。
「……誰か、来るかも」
 かぼそい声で答えが返った。その内容にわたしはひそかに驚く。
 彼女がそんなふうに誰かとつながりを持ちたいと望んでいるらしいことが、やはりわたしには理解できない。
 彼女は『昔』からそうだったのだろうか。無口と無表情の下で、本当は人とつながりたいと、人間らしい喜怒哀楽を得たいと願っていたのだろうか。
 もしそうなら、彼女はわたしなんかより、ずっと人間に近い生き物だ。『今』ばかりではなく、『昔』からそうだったのだ。わたしには感情というものがない。模倣することはできるし、かなり熟達している自信もあるが、真に理解することはおそらく永遠にないだろう。
 わたしは人ではない。ああでも『今』は人なんだっけ。すぐに忘れそうになる。それはわたしにとって重要なことではない。
 ただ彼女が――彼女を守ることだけが、わたしに与えられた存在の意味だった。
「本を読むのって面白い?」
 気まぐれに尋ねると、こくりとこれは、案外すぐに反応がある。
「わたしにはわからないなあ」
 そう言ったのは本心からだった。紙に書かれた文字を読むことで情報を得るなんて、時間もかかるし不正確な手段だとしか思えない。必要があるなら直接データをダウンロードしてくれば――それは『今』は不可能な手段だったが、少なくとも『昔』は可能だった。わたしだけでなく彼女にも。ところが『昔』から彼女は本を読むのが好きだときている。
 彼女はきっと情報を得るために本を読んでいるのではないのだ。
 本というものを最初に彼女が手にしたのは、四月になって、文芸部に入部してからだろう。はじめの頃はずいぶん読むのが遅かったことをわたしは知っている。文字というものを視覚情報を解析することで入力するという、アナログなやり方に慣れるのに少し時間がかかっていた。それは日を追うごとに早くなり、今ではおそらく人間の平均的な速度よりもかなり早くなっているはずだが、彼女の特殊な能力を用いれば到達できるはずのスピードには遠く及ばない。
 過程を楽しむということの意味を彼女は知っているのだろう。それはおよそ本来の『わたしたち』とはかけはなれた心性だったが。
 感情というものを知らないわたしには、彼女を羨むことすらできない。
「……わたしには、あなたのほうがわからない」
 ふいに小さな声が聞こえた。意外な言葉だった。そもそも彼女のほうからわたしに何かを話しかけるということが日頃ほとんどない。
「なにがかしら?」
 尋ね返すと、彼女は顔を上げ、思いをうまく言葉にできないもどかしげな様子でわたしを見つめた。
 それだけでわかってしまった。何か部活をしているわけでもないわたしがどうしていつも彼女の帰りを待っているのか、彼女は疑問に思っているのだろう。無駄に時間をつぶすくらいなら、文芸部に入部してしまえばいいと彼女が考えるのは無理もない。
 だけど。
 ふふ、とわたしは微笑んだ。
「だめよ。無理。わたしは文芸部には入れないわ」
 本を読むことの楽しさを理解できないからというのは大きな理由のひとつだ。だけどほかにもうひとつ。
 だって、文芸部室にわたしがいても、あなたは本を読むばかりでどうせわたしのことなんか見てはくれないでしょう?
 落胆に沈む彼女の表情を見ていると、しかし少しだけ胸があたたかくなった。
 あなたがわたしを誘ってくれるのは、わたしの存在を認めてくれているということなのかしら。
 もしもわたしに願望というものがあるとしたら、それは唯一あなたに必要とされたいというものであるのに違いない。
「今日は冷えるわね」
 そうつぶやきながらわたしは歩く。彼女の隣を。
 明日は彼女にあたたかなおでんを差し入れしようと考えながら。

[20071219]