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Someday in the Snow

2 一月

 いくらか勢い余ってしまい、額と額がぶつかった瞬間、ごつんと硬い音がした。これは俺が石頭だということではない。頭が固いのは(いろいろな意味で)どう考えても相手のほうだ。
「あの…」
 いくらかの困惑をいつものうさんくさい笑顔の中に忍び込ませて、古泉一樹はささやいた。
「顔が近いように思うのですが、これにはどういう意図がおありで?」
 ちなみにそこは放課後の部室だった。電気ストーブひとつでは到底あたたまりきらない部屋の中には俺と古泉の姿しかない。女子三人は、女の子だけの秘密の行事があるのとか言ってとっとと先に帰っちまいやがった。なんとなく腹立たしいが、厄介ごとに巻き込まれたり大変な用事を言いつけられたりするよりはずっとましだ。
 この日はずいぶん冷え込んでいて、朝から雨が降りそうだった。俺と古泉だけで部室に取り残されたところで、不毛なオセロゲームを果てしなくくりかえすばかりで、生産的な時間などまったくすごせるはずがない。俺たちもさっさと帰ろうぜという成り行きになるのは必然というものだった。
 だがしかし。
 その目に見えていた展開に少しばかりの変更を加えたのはなんと俺のほうだった。ちょっと待て、そこで立ち止まれと、すでに鞄を手に椅子から立ち上がっていた古泉を引き止めた。その上着の襟の部分を掴んでむりやり引き寄せないことには額が届かないのが忌々しい。
 額と額のあいだの距離をゼロにして、そのまま動きを止めた様子は熱を計るときのそれに似ていただろうが、あいにく俺の意図はそこにない。
 まったく俺もどうかしている。
 しかし顔が近いという文句ばかりは古泉からは言われたくない。散々俺にセクハラまがいの顔面急接近をしかけておきながら、自分が同じことをやられたときには文句を言うのか。不条理だ、不公平だ、納得いかん。
「文句を言ったのではありません、これは純粋な質問です。あなたがどうしてこのような行動に出るつもりになったのかをお訊きしているのです」
 へりくつを言うな、おとなしくしろ、いいから黙って目を閉じろ。
「目を……」
 古泉は明らかな不信感を顔いっぱいに表現していたが、あいにく俺はそんなことに頓着することはなかった。というか自分の行動が不審なことは自分が一番よくわかっている。わかっているのだがしかし。
 目の前にある無駄に整った顔をあまりまじまじ見ているとこちらのほうが恥ずかしくなってくる。見られるのもダメだ。いたたまれない。だから、古泉が目を閉じたことを確認すると、自分も急いで目を閉じた。
 額のわずかな面積だけがふれあった状態で、しばらくただ黙っていた。温度差はあまり感じない。古泉が息を殺して、身体をこわばらせているのがわかる。顔に呼吸がかからないのはありがたい。……妙な気分になっちまったら困るからな。
 一分、いや二分くらいだっただろうか。
 沈黙は意外にも苦痛ではなかった。古泉の静かな呼吸を聴きながら目を閉じていると、ふしぎなことにひどく穏やかな気持ちになった。
「……元気出たか?」
 そう言って離れると、古泉はどこかしらぼんやりとした目を開いて俺を見た。
「これは、何なのですか?」
「おまじないだ」
「おまじない…」
 小首を傾げて古泉はくりかえした。
「こうすると元気になるそうだ」
「誰から聞いたんですか?」
 古泉の問いに俺は一瞬口ごもった。
「誰からだっていいだろう」
「はあ……」
 微妙に腑に落ちていない表情をして古泉は腕組みをした。
「キスでもされるのかと疑いましたが」
「あほか!」
「あなたに限ってそんなはずはないと思いはしたのですが。場所も場所ですし」
 場所がどこだろうとするわけがない。念のため断っておくが俺と古泉は『そういう』関係じゃない。清く正しくわけのわからない相棒的間柄だ。
「ですが、たとえおまじないの一種にすぎなかったとしても、やはり唐突な行動であると言わなければなりません。僕はそんなに…元気が不足しているように見えましたか」
 ああ見えた。見えたともさ。
 我らがSOS団副団長様はここのところずっと体調を壊しているか疲れているか悩み事があるかの様子で、目の下に盛大に隈まで作って、そのくせ自分はなんでもありませんよというそぶりで、にこにこ微笑んでいやがるものだから、目障りなことこの上なかった。
 俺の指摘に古泉は黙り込み、視線をそらして小さく「まいったな」とつぶやいた。
「なんでもないんです。本当に、ここのところすべてがうまくいきすぎて、不安になるくらいです。このまま何事もなく平和なうちに時間がすぎて、僕たちも役目を終えて、SOS団は解散となってしまうのだろうかと、そんなことをつらつらと考えていたくらいです」
「あのなあ」
 俺は正直言って、かなりあきれた。
「おまえが知らないだけで、俺は結構苦労させられているし、仮に今が平和に見えたところでそんなのはつかの間の休息にすぎないだろうよ。心配するまでもない」
「……そうだといいのですが。いえ、これは平和であることを疎んでいるという意味ではなく」
「わかってるさ」
 やけに貧乏性で平和慣れしていないこの哀れな男の言葉を俺は遮った。何があってもなくてもこいつは不安に思ってしまうのだろう。困った奴だ。今回のこれは胃薬では対応できそうにない。
 科学ではどうにもならないことだからこそ、おまじないといった怪しげな手段が効果を発揮する。
「くりかえして訊くが、元気は出たのか、出ないのか」
 俺が強い声で問い詰めると、古泉は何度か瞬きをして考え、答えた。
「出たような気がします」
「じゃあもういいだろう。帰るぞ」
 照れ隠しも半分あって、俺は乱暴な仕草でコートを着込む。どうせ帰り道も途中までは一緒なんだがな。
「雨、まだ降ってないよな」
「……ええ。いえ、待ってください」
 カーテンのない窓際へ寄った古泉が、奇妙な響きの声を上げる。なんだ?
「……雪です」
 俺も古泉の隣に立った。真っ暗な空から不安定な軌道を描いて降り落ちてくる、小さな白いものがある。
 音もなく、ひどく慎ましやかで儚いそれを、俺たちは部室の中から黙って見上げた。
 一月の終わりの頃のことだった。

[20080121]