耳の虫
「ほら、ちゃんと足出して」
肩にのしかかる彼の重みは熱く湿って、そしてぐにゃぐにゃだ。甘ったるいアルコールの匂いが彼の呼吸の中には充満している。僕だってそれなりには飲んだはずなのだが、多分体質的に彼よりは強いのだろう、さほど酔った感じはしない。
SOS団の合宿中の飲み会で、つぶれてしまった彼を部屋へ運ぶ役目を僕が仰せつかった。これはただそれだけの、ありふれたとも言えるできごとだ。なぜならここには彼を運べるだけの力のある人間は僕しかいない。案外長門さんあたりは指一本で彼を持ち上げることも可能な気がするが、それを涼宮さんの目の前でやるわけにはいかない。
そんないきさつから僕は彼に肩を貸し、よろよろしながらも一緒に廊下を歩いている。
ひとりで歩くことはできなかったが、促されてのろのろと足を動かすことくらいはできるというのが今の彼の状態だ。意識は完全には落ちてはいない。それが証拠に、さきほどから彼は調子外れの鼻歌をずっと歌っている。
僕の知らない曲だった。メロディラインは軽快だから、最近流行のポップスなのかもしれない。何度も同じフレーズをくりかえしているのは、彼にしても曲の全部を覚えているわけではないのだろう。おそらくはサビの部分を、何度も、何度も。
それは僕の耳に、肌に、やわらかく沁みとおる。
「なんて曲なんですか」
尋ねてみると、
「んー、なんだっけ」
こればかりは急に明瞭な響きで答え、彼はぐいと僕に顔を近づけた。
「好きなんだ」
一瞬、心臓が止まった気がした。呼吸も止まった。
本気で息の根が止まる寸前に、ああそうか曲のことだと理解できたのは幸いだった。
彼はこの曲が好きで、大好きで、だから何度もくりかえし歌ってしまう。そう言いたいのだろう。オーケー、オーケー、ノープロブレムだ。
僕の轟然と荒れた心中を除いては。
部屋はもうすぐそこだった。彼を支えながら片手で扉を開けて、最後の数メートルを懸命に進み、ベッドの上に彼の身体を投げ出した。スプリングで何度か跳ねて、それがおさまるのと同時に彼は横向きに身体を丸めてすうと深い息をつく。
もう眠りに落ちている。
服を着替えてもいないが、最初からラフな恰好だ。このまま寝かせておいてやるほうがいいだろう。
僕は彼に薄いブランケットをかけて、その枕元に腰を下ろす。眺めるだけだ。眺めるだけで、何もしない。
あなたの酒癖最低ですよなんて心の中でつぶやきながら、僕は彼の安らかな寝息に耳をすませる。
そんな合宿も無事に終わったある日のことだ。通学路の長い上り坂の途中で彼に話しかけられた。
よっ、なんていう軽いかけ声はまるで僕たちが普通の友人同士みたいで、僕は少しばかりとまどいながらも、表面的にはいつもの微笑みを形作る。
「おはようございます」
「おまえが鼻歌なんて珍しいな」
彼に言われてはじめて気づいた。僕は知らず知らずのうちに、彼の口ずさんでいたあの曲をハミングしていたらしい。
もちろん耳で聞いただけだから適当だ。曲のタイトルも歌詞も知らない。それでも彼のやさしくゆるんだ声で、その1フレーズはしっかり耳に焼きついてしまっている。
「その歌あれだろ、あれ。えーと」
やはりまだ曲のタイトルを思い出せないらしい彼に、意趣返しに僕は思い切り顔を近づけてやった。
「好きなんです」
この1フレーズが、あなたの声が、そしてあなたがね。
[20070903]