TEXT

君の好きなとこ

「なあ、おまえ、俺のどこが好きなんだ」

 あまりに唐突なその問いかけに、僕はあやうく口に運びかけていたフォークを取り落とすところだった。
 そこは僕の家の近所にあるイタリアンレストランの一角だった。今僕は、『彼』とふたりきりで、ひとつのテーブルに向き合って食事をしているところだった。
 といってもなんら特別な意味のある会食ではない。そこは重厚な外見のわりに、安くて手軽な店だったから、日頃からよく自炊が面倒になると利用していた。
 ちょうど眺めのいい窓際の席に座ることができたが、僕たちが入ってきたあとから店は急に混みはじめ、クリスマスが近いこともあってか、家族づれやカップルでにぎわっている。
 よほどの大声で話したりしなければ隣の席に声が抜けることはなさそうだったが、しかし一応は人前だ。
「……なんで急にそんなことを訊くんですか」
 僕は気を取り直して、フォークに巻かれて冷めかけたボンゴレをひとくち含んだ。向かいの席でミートソースをつついている彼は、行儀悪くも片肘をテーブルにつき、思案げな顔つきで僕を見ている。
「飽きないものかなと思って」
「え?」
「もうすぐ一年になるだろ」
 僕は一瞬口をつぐむ。一年。確かにそろそろ、それくらいになる。
 彼と一緒に暮らしはじめてから一年だ。
 彼と僕とは通っている大学が違う。高校を卒業してすぐの頃は彼はまだ実家にいて、僕は相変わらずのひとり暮らしだった。会おうと思えばすぐにでも会える距離ではあったが、次第に連絡は途絶えがちになった。当然のことだと思う。彼にも僕にもそれぞれの生活がある。
 僕はすでに涼宮さんを監視する業務からは解放されていた。それだから、彼女たちや彼と会うために積極的に動く必要はどこにもなかった。あるとすれば単純に元同級生として、SOS団OBとして、僕たちは旧交を温めるだけのために、ときたま集まるのだった。
 このまま彼とは次第に距離が離れて、互いのことは思い出の中に埋もれていってしまうのだろう。僕は本気でそう思っていたし、そのことに対してじりじりと足裏から焼かれているような不安と焦燥を感じていたが、自らこの状況を覆すために動くことはなかった。
 僕は恐れていたのだろう。
 今ではもう、彼に不用意に近づくことが世界の崩壊を意味したりはしないと知っていても、僕はまだ動き出すことができなかった。常識や彼のためを思うといった偽善的な心理が僕を縛っていた。時間をおくことで忘れてしまえるのなら、そのほうがいいと真剣に思ったりもした。
 ところがだ。
 まったく思わぬ成り行きから僕は彼と同居することとなり、それも気がつけば同居ではなく同棲と呼ぶべき事態に発展し(そもそも、毎日彼と身体のどこかがふれあうような距離にいて、そうした事態を避けることなど最初から不可能だったのだ)、そんな関係が一年近くも継続している。
 これを驚愕すべきことと言わずしてなんと言うべきだろう。
 僕は以前から彼のことが好きだったからいいが、彼の場合は同情なのかなんなのか、仕方なしにつきあってくれているという観が強い。
 そろそろ終わりにする頃合だと考えているのかもしれない。
 そう思うと僕の気持ちは真っ暗な底なしの穴にどんどんと落ちていってしまうようだった。そんな僕の感情の動きはすべて表情に出ていたのだろう、彼は少し慌てた顔になって、そうじゃなくてと言った。
「俺はいいんだ、別に。だけどおまえが……。いいかげんわかった頃だと思うが、俺は本当にどこも変わったところのない平凡中の平凡、キングオブ平凡の一般人だ。今となっちゃ、あいつの『鍵』としての価値もない。なんでおまえがそんな俺にいつまでもしがみついてんのか、正直いって疑問なんだ」
 何を馬鹿なことを言っているんだろうか、この人は。
 最初に思ったのはそんなことだった。どこからどこまで平凡な一般人。その肩書きとも呼べない肩書きは、最初に会った頃から常に彼がぶらさげているものだ。
 しかしそんなのは表面的な見方にすぎないと、彼に直接向き合ったことのある人ならば誰でもわかる。数値化できない部分にこそ彼の真価は存在している。
「あなたが好きです」
 僕が真顔で言うと、彼は飲んでいたコップの水にいきなりむせた。
「…なっ、…ばっ……」
「ですが、どこが好きなのかを説明するのは難しいですね」
 僕は考え考えつぶやいた。彼の好きなところなんて、それこそ数えきれないほどある。しかしそれを本人に対して言えるかというと別問題だ。
 ひとつひとつは些細なことなのかもしれない。僕にとってだけ意味を持つことなのかもしれない。話してもわかってもらえるかどうかわからない。彼に告白できずにいた長い時間のうちに、想いは僕の中に降り積もり、いくつもの迷いやためらいや後悔や願いといった感情が、みんなひとかたまりとなって切り離せなくなってしまった。
「それに…言ってもあなたは困るかもしれませんし」
 僕の頼りのない声に、彼は瞬時に顔をしかめた。怒らせたのだとすぐにわかる。
「なんで困ると思うんだ」
「……それは」
「もうちょっと俺を信用しろよ」
 ふてくされてそっぽを向く、そんな顔も好きだと言ったら、彼はどうするのだろうか。
 正直に告白すれば、今ここで彼が僕の言葉に怒ってくれたことを、僕はひどく喜んでいる。彼だって僕の気持ちを信じられないでいるくせに、自分のことだけは信じろという彼の勝手な主張が愛しくてたまらない。
 僕は彼のどんなところも好きだ。自分の価値をまるでわかっていないところも、恥ずかしがりの横顔も、すねたり怒ったりする気持ちが素直に表れる眉も、すっきりとむき出しのきれいな耳の形も全部。
「だったら、あなたも僕を信用してください」
 僕がそう言うと、彼は少しばつの悪そうな顔をした。僕に飽きないのかと尋ねてみたり、どこが好きなのかと尋ねてみたりするのは、まさに僕の気持ちを疑うことと同じなのだとようやく理解したらしい。
 それから微妙に気まずい空気の中、食事を終えて、僕たちは店を出た。外には色とりどりの電球で飾られた大きな木が立っていたが、その明かりにも負けないくらい、空には星がいっぱいだった。
「もしかしたら、あの星の数を全部足したくらいかもしれません」
 突然僕がささやくと、彼は怪訝な顔をして僕を見上げた。
「何がだ」
「あなたの好きなところの話です」
「……大げさだな」
「あなたが困らないのなら、ひとつひとつ、どんな小さなことも、僕だけの秘密にしておきたいようなことも、全部お話ししたってかまわないと思うのですが、でもやはり、それを口に出すのは難しいのです」
 僕は淡く微笑んだ。
「ふしぎですね」
 僕はきっと彼のことが好きすぎて、好きなところなんていちいち挙げるときりがないくらいに好きで、彼のことを考えるだけで胸がいっぱいになってしまって、それが僕の口を重くしているのだと思う。
 星の数ほど、つまりは天文学的数字に相当するほど好きなところがあるだなんて、彼は納得してくれないかもしれないけれど、僕の気持ちに偽りはない。
 たとえば彼が数日前に切りすぎたと言って気にしていた前髪も、僕の目にはひどく愛らしいものにしか映らない。
「いつか信じてくださいね」
 僕は彼の前髪をさらりと指の背で撫でつけ、先にたって歩き出した。
 彼がどういうつもりで僕とつきあってくれているのかわからない。そもそもの始まりの、一年前のクリスマスイブに起きたできごとを、なんとしたことか僕は記憶していない。
 よりによってそんな日にインフルエンザで寝込んでいた僕のところへ、彼は駆けつけてきてくれた。文句を言いながらも泊りがけで看病をしてくれた。
 僕はなかば熱で朦朧としていた。何かきっと、これまで自分に禁じていたような種類のことを、言ったりしたり、したのだと思う。それを彼はどう受け止めたのか、翌々日になって僕の頭が少しはっきりした頃に、あまりにも普通の顔をしてこう言った。
『それで、俺はいつ越してくればいいんだ?』
 僕はそんな彼を信じてみようと思う。
 ゆっくりと道を歩く僕に、彼は追いついてきて、隣に並んだ。吐く息が白い。たちまち冷える頬をマフラーで覆い隠して、彼はぽつりとつぶやいた。
「信じてないわけじゃない」
 それきり彼は黙ってしまう。頑なに僕のほうを見ない横顔を、僕はそっと見つめる。本当は今すぐに抱きしめてしまいたいと思うけれど、我慢する。
 彼の好きなところを世界中の誰よりもよく知っているのはきっと僕だ。
 そう思って少し微笑む。
 夜の気温は凍えそうに低くても、胸の中はあたたかい。
 歩いてほんの数分といった距離にある『僕たち』の家に、今は少しでも早くたどりつきたい。

[20071223]