僕のいない夏休み
終わりのない夏休みというものを想像できるでしょうか。
それはそれはうんざりとさせられる退屈なものだと思いますか? その想像は間違ってはいませんが、必ずしも正しいとも言えません。
確かに夏という季節は暑すぎて、それだけで思考の多くを奪い取られてしまいます。とても学習に集中できたものではないから学校だって休みになるのに、にもかかわらず課題と称する頭脳労働が強制的に課せられるのはいかなる不条理でしょうか。そんなものに取り組んでいてはまったく休んだことになりません。夏休みという呼び名そのものが裏切りを、背理を含んでいる。そうとも言えます。
しかしながらひとたび課題というものから目をそらしてしまえば――それがさっさと課題を片づけてしまうという方法だろうと、あえて存在ごと忘れてしまうという方法だろうとここでは問いません――確かにめったにないほどの自由に使える長い時間が得られていることに間違いはないのです。
それをどのように使うかという点においてはまた多くの選択肢が存在し、たとえば涼宮さんのようにアグレッシブに毎日動き回っていては、またもや夏休みを休んだことにはならないのでしょうね。
実際「あなた」は毎日くたくたでした。昼間全力で遊んだあとは、家に帰って倒れるみたいに眠ってしまった。課題は確かに進まなかったでしょうが、よけいなことを考える暇がないほど充実して楽しい日々だったはずです。いえ、非難しているのではありません。あなたには夏を楽しむ権利があった。さらには義務があったと言ってもいいでしょう。あなたはお気づきではなかったかもしれませんが、そうなのです。
少し離れたところからあなたを見ていた僕にはよくわかりました。近くにいてはきっとわからなかったであろうことが遠くからならはっきりと。
その夏、僕は、八月十七日のあの待ち合わせの場所に行くことができませんでした。
なぜというのは問わないでください。涼宮さんが僕だけをのけ者にしたとか、そういうこともありません。彼女はそんなことをする人ではありません。ただ僕はあの場所に行くことができなかった。太陽に熱せられた自転車のサドルを引き、黒々とした影を落として、伝う汗を気にしながら木陰でため息をつく。そういう時間をすごすことがなかった。それから先に起こった一切のできごとをあなたと共有することがなかった。
僕がいなくてもその夏は、ほかのあまたの夏と同じく狂騒的に、死にかけた蝉の必死の鳴き声みたいにすぎていきました。僕の不在によって物事が少しも変化しなかったとは言いませんが、おおよそのできごとは多少のディテールの修正を経て、つつがなく執り行われました。
ほんの少し、さびしく思う気持ちもありましたが、僕は奇妙な安堵に満たされてもいました。僕の存在は唯一無二の重要なものではないという現実、システムの安定に僕は必要ないのだという現実。それはいざというときの責任を軽減する効果を持っています。僕にはおそらく何もできない。あなたを、彼女を守るために、決定的な役割を果たすことはない。
しかしそれは長門さんでも朝比奈さんでも同じことです。どれほど重要な役目を担っているように見えても、重要なのは役目であって彼女たち自身ではありません。取り替えがきくのです。
もちろんそんなことはいまさら涼宮さんが許さないでしょうし、あなただって悲しむでしょう。あなたは僕が別の誰かと交代しても悲しんでくれますか? いえ、よけいなことを言いましたね、忘れてください。
ともかく、その夏のあらゆる行事を僕は参加することなく遠くからただ眺めていました。この夏は永遠に終わることがない。それを僕は知っていました。九月一日が来る前に、再び八月十七日に戻ってしまう。なのにあなたを含めた世界中の人々はそれに気づくことがないのです。
もちろん長門さんは別ですが、彼女は観測に徹していて、自分から何か行動を起こすということはありません。それに驚くべきことに、彼女すら、このループを抜け出す手立てを知らなかった。
ところが実は、僕は知っていたのです。
夏を楽しんで楽しんで楽しみつくしている彼女が唯一不満に思っているささやかな願いを叶えてあげること。それがあなたに課された真の課題でした。しかし八月三十日のいつもの喫茶店であなたが言ったことはこうでした。
「実に不本意だが、やはり古泉がいないと落ち着かん」
そうね、と涼宮さんは答えました。朝比奈さんも長門さんも少し沈んだ顔でうなずいて、その場はそれで解散になりました。そうじゃないだろうと僕はあなたの胸ぐらを掴んで揺さぶってやりたかった。本当に、できるものならそうしていただろうと思います。
終わりのない夏休みというものを想像できるでしょうか。
それは果てしなく続くきらきらと鮮烈で美しい時間のつらなりです。その奔流の中にいると目がくらんで何も見えなくなってしまう。だけど少し離れてみればわかります。それは時間の牢獄であり、きらびやかで物悲しい幻想です。幸福な幻であり、また精神を引き裂く拷問です。
できるだけ早く終わらせるべきものでした。あなたには実際、いつでもそれができたのだと思います。なにも一万五千四百九十八回もの夏をくりかえすまでもなく。
なのにあなたは、あなたにとって最良のシークエンスを選ぶために時間をかけた。それがあなた自身にも、ほかの誰もに負担をかけるものだと知りながら。
僕のいない夏休みの何が不服だったというのですか。あなたにとって僕の存在などちっぽけなものではないのですか。僕のかわりなどいくらでもいるではないですか。
――あなたに僕は必要なのですか。
鋭い高音と同時に鮮やかな痛みが頬で弾けた。
「古泉!」
呼ぶ声にはっと目を見開き、そこに「彼」の顔を見つけた。髪が濡れている。日に焼けた肩や二の腕も。
ああ、市民プールだとふいに気づいた。
「あ、れ……?」
僕はぐるりと周囲を見まわした。プールサイドの日陰に僕は寝かされていた。涼宮さんと朝比奈さんの姿は見当たらないが、彼とは反対側から長門さんが無表情にこちらを見下ろしている。
「熱中症か? 急にふらっと倒れやがって」
「え?」
まったく覚えのないことを言われた。本当だろうか。ちゃんと朝食は食べてきたし、水分補給もしている。なにより夏休みの後半になり、初めて涼宮さんからの召集のかかった日で、気を抜いていられない。
とりあえず今わかる範囲では、身体の具合はおかしくなかった。めまいも頭痛も胸のむかつきもない。急に倒れたというのが本当でも熱中症ではないだろう。
僕は慎重に身を起こした。問う視線を長門さんに投げかけてみたが、返答らしき反応は何も得られなかった。もっとも僕ごときでは長門さんの表情の変化を的確に捉えることは難しいのだが。
「……ご心配をおかけしまして。もう大丈夫なようです」
そう言うと、彼は怪訝そうに眉間にしわを寄せたまま肩をすくめた。やれやれと、口に出して言われたわけでもない彼の口癖が耳の奥でこだまする。僕は彼のその声の響きが好きだった。
ふり返るとプールの水は空の色を反射して青く、澄んでいた。ああきれいだとふいに思った。高校一年の夏休みというのは一度しかないきらきらと鮮烈で美しい時間のつらなりだ。
僕はここにいる。焼き焦がされそうになりながら夏の中を疾走している。彼と、ほかのみんなと一緒に。
この夏が永遠に終わらなければいいのにと願いながら。
[20121017]