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眠りの代償

 いつも、最初に感じるのは重みだった。
 肋骨を軋ませ、肺と心臓をまとめて押しつぶされそうな、圧倒的な重みが胸にかかった。その力は僕をベッドに縫いつけ、身動きひとつできなくさせた。
 肺から押し出された空気が喉でくぐもった音を立てるのを、僕は他人のもののように聞いた。
 なんとも言えない生臭さを感じるのはそれからだった。身の毛のよだつ低い唸りを耳にするのも。
 虎だ。
 目を開かずともそれがわかった。巨大な虎が僕の全身にのしかかり、押さえつけている。
 その巨大な獣に殺意や悪意といったものはなかった。当然だろう。純粋な肉食獣である彼らは食べるために狩りをする。そこによろこびはあるかもしれないが、引き裂く対象に対しての憎しみは存在しない。
 虎はただ、僕を食べるためにここにいる。
 そのことを最初から僕は知っていた気もしたし、何度もくりかえされるうちに否応もなく覚えこまされたのだという気もした。初めの何度かは抗うこともした。しかしまったく無意味だと悟ってからは抵抗をやめた。虎と僕の力の差は圧倒的だった。僕はそもそもその重い足の先から逃げ出すことさえできなかった。
 虎が現実の存在であるとは僕も考えてはいない。こんな住宅地の真ん中の、鍵のかかったマンションの一室に突如そんな大型の獣が入り込めるはずがない。動物園から逃げ出してきたと想像するのもナンセンスだ。あまりにもありえない。
 僕がそれを虎だと思うことにも根拠はない。目を開いたところで僕には何も見ることはできない。部屋は真っ暗で、視覚の情報というものが一切使えない状態だ。しかし目でその姿を確かめることができたところで僕に何が言えただろうか。僕が虎という生き物について知っていることは驚くほど少ない。だとしたら、暗闇の中に感じる存在感と、押しつぶされそうな重み、爪や牙が皮膚を破る感覚と生臭い呼吸とで、それを虎と断じることに不都合はない。
 僕の身体は恐怖にこわばり、少しふるえる。それは僕の身体が自動的に送り出す、反射的な反応だった。僕の身体はまだ死にたくないと思っている。それがわかって僕はふしぎなことに安堵する。ぴくりと指の先がもがくのを、意志の力でおさえつける。
 僕は慣れた。いや、慣れようとしている。もしかしたらそのうち本当に慣れてしまうかもしれない。
 虎の牙がなまあたたかく濡れて、僕の喉もとを撫でていく。
 夜ごと僕は虎に食われ、死ぬ。そして翌朝、傷跡ひとつなくして甦る。それは逃れられないここ数日の儀式だった。


「おまえ最近変だぞ」
 不機嫌そうにぶっきらぼうな口調で言って、『彼』はチェスのポーンをひとマス動かした。視線を上げもしない。僕を見ない。
 だけど彼が僕を心配しているのだということはわかる。
「そうですか?」
 僕は穏やかに返して、白のナイトを進めた。
 放課後の部室の、ありふれたひとときだった。
 長門さんが窓際で本のページをめくる、かすかな音以外はほとんど無音に近い。涼宮さんと朝比奈さんは不在だった。涼宮さんが朝比奈さんを強引にどこかへ拉致している可能性もあるが、特に連絡はなく、『機関』からもなんの指示もない。涼宮さんの行動の監視は僕の重要な任務のひとつだが、日常のささいなひとコマまで逐一把握する必要はない。
 長門さんがのどかに本を読んでいるくらいだから、緊急の問題は起こっていないだろうと推測することもできる。だから僕はこうして彼とチェスをしていられる。
 僕のことになんかまるで興味のなさそうな彼が、案外よく見ているということを僕は知っている。部室で長時間ゲームで対戦していたりするためだろうか。ほかの誰も気づかないちょっとした体調不良などでも鋭く見破られてしまう。
 僕はつるりと自分の頬を撫でた。
「むしろ調子はいいくらいですよ」
「確かに目の下の隈はなくなった」
 不承不承といった口調で彼はつぶやいた。その様子から、彼が少し前までの僕の不眠に気がついていたことは明らかだった。
 僕は長いあいだうまく眠れずにいた。あるときから急に眠る方法を忘れてしまったように、夜の間中目を閉じたまま鈍い閉塞感の中に閉じ込められるようになった。原因はわからない。
 眠りという安らぎが訪れずとも、じっとしていることで身体の疲労は少しはとれるのだろうか。僕はすぐに倒れてしまいはしなかった。重い身体をごまかしごまかし、日常をつづけた。どうしてか誰にも相談しようとはしなかった。もちろん『彼』にも。いつのまにか秘密を持つこと、それを自分だけで処理しようとすることは僕の習性となっていたのかもしれない。
 それは事態の変化した今でも変わらない。
 長いあいだつづいた不眠は、始まったときと同様、急に終わりを告げた。
 虎の訪れによって。
「しばらく不眠症とでも言うべきものに苦しめられていたのですが、どうやら回復したようですので、ご心配には及びません」
 完全には嘘とも言い切れない言葉を僕は返した。確かに不眠はなくなったのだ。思いも寄らぬ形ではあったが。
「それを本気で言ってるんだとしたら、おまえは自分の顔を鏡で見たことがないんだ」
 彼は不機嫌なまなざしを正面から僕に投げつけた。思わず息が止まった。
 そんなふうに見ないでほしかった。僕には彼に隠しておきたいことがたくさんある。不用意に読み取られてしまってはたまらない。
 考えてはいけない。思いつめてもいけない。なかったふりで、目をそらして、忘れてしまえばやりすごせる。
 僕が望むのは完全な沈黙、完全な平穏、それだけだ。
「本気ですよ。本気で僕は現状に満足しています。僕は健康ですし、不眠に悩まされることもない。考えすぎて苦しむこともない」
 僕が微笑んでみせると彼の眉間の溝は深まり、忌々しげにその手が強くチェスボードに駒を置いた。
 チェックメイトだった。
「俺は先に帰る」
 ひとことひとことをはっきりと発音し、彼はいきなり立ち上がった。不機嫌な顔のまま鞄を肩から提げて出口へと向かう。最後に一度立ち止まり、ふりむいた彼は僕を見下ろしたが何も言わなかった。
 それでもその目は雄弁に何かを語っていた。
 僕は彼を裏切ったのだろうか。
 僕が憂鬱な気持ちでボードの上に視線を落としていると、窓際でぱたんと本を閉じる音がした。長門さんだ。彼もいなくなったことだし、涼宮さんと朝比奈さんは今日は来ないと判断して帰ることにしたのだろう。
 彼女の観察の対象に僕は含まれていない。その軽い足音は、僕のことなどは無視して出口に向かうだろう。そう予想したのに意外なことに、彼女の小さな足は僕のかたわらで止まった。
「……何か御用ですか?」
 いつまでも彼女が黙っているので、僕のほうから顔を上げて尋ねなければならなかった。長門さんは作りものめいた小づくりな顔になんの表情も浮かべず僕を見ていた。
「その現象は涼宮ハルヒの力によるものではない」
 前置きひとつなく、彼女はそう言った。
「少なくとも涼宮ハルヒはあなたの死を願ってはいない」
 彼女は僕の身に毎晩何が起こっているのかを知っているのだ。そう悟った。
 僕は長門さんの目を見つめ返した。ふしぎと心は冷静だった。
「ではそれ以外の誰の力によるものです」
 未来人か宇宙人か、あるいはその他各種の勢力が候補としては考えられる。現実世界では普通の人間の力しか持たない僕に精神的な攻撃をしかけるのは、どの勢力にとっても簡単なことだろう。
 長門さんはじっと僕を見た。そこには『彼』のような探る意図はなかったが、意図すらなくとも彼女にはすべてが見通されているのだと思うと十分に居心地悪かった。
 彼女はきっと知っているのだろう。僕が彼に対して抱いている感情のことも、なにもかも。
「誰の力によるものでもない。原因はあなた」
 静かな声で彼女は言った。僕はただ黙ってそれを聞いた。
 心のどこかではわかっていたのかもしれない。
「なんとかするべき」
 短くそう告げると彼女は身軽に踵を返した。そのまま影のように部屋を出て行く。ひとり取り残された僕は、いつまでもぼんやりと閉じられた扉を見ていた。
 なんとかしろとは、軽く言ってくれたものだ。
 血肉を持つ実在の獣でないのなら、それは幻覚かあるいは悪夢の産物かと、僕にしたところで考えたことがないではなかった。何者かの精神攻撃である可能性も考えられたが、それは現実的ではないと僕は思っていた。
 僕にくりかえし死のイメージを与えても、それが誰かの利益につながるとは思えなかった。ならばこの現象から最大の利益を得ている者こそが、原因をもたらしているのだと想像することは難しくない。
 それは僕だ。
 僕の不眠症は虎が現れるようになってからきれいに消えた。夜ごと僕に訪れているのは眠りではなく擬似的な死だったかもしれないが、そのふたつはひどく似通っていた。少なくとも僕は今では苦しんでいない。完全な思考停止という闇の中で安らいでいる。
 虎は僕自身が望んだ死の象徴であるのかもしれない。
 三年前に閉鎖空間という特異な場所で戦うようになってから、次第に僕には死というものがよくわからなくなった。現実が、世界があれだけあやふやだというのに、死だけが明確であるはずもないが、その持つ意味も、本質的に備わっていてしかるべき恐怖も僕には遠かった。
 むしろ憧れてさえいたかもしれない。死とは終わりの代名詞だった。すべての煩わしい問題から完全に逃げ去ることができる最後の手段だった。とはいえ僕は自ら死のうと考えたことはなく、またその勇気もない。
 虎がそんな僕の生み出した願望の姿なのだとしたら、それは同時に僕の弱さの象徴でもあった。
 しかしそれがわかったところで僕に何ができるというのだろうか。長門さんの指摘は無意味だ。僕自身の願望と弱みから逃れる術を僕は見出すことができない。
 それだから今日もまた僕は虎の前に力なく全身を投げ出すことしかできない。
 恐れとあきらめ、そして淡い陶酔を胸に。

[20080628]