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声が聴きたい

 新川さんに車をアパートの前まで着けてもらい、足音を殺して部屋に戻ると、ちょうど午前四時になっていた。
 閉鎖空間の発生は最近減っているとは言っても、数少ないそれが夜明け近くに集中しているのはきつい。眠れない夜にようやく眠りについて、深く安らいでいるところを突然強引に起こされることになるのだから、その精神的、肉体的疲労度は高い。神人と戦うことよりも、眠りを邪魔されることのほうがつらいと感じる。
 眠りのさなかに感じる地震と、閉鎖空間の発生によってもたらされる感覚は少し似ている。
 ふいに闇の中で目を見開くが、最初は何が起こっているのかわからない。ただ奇妙に落ち着きなく打ちはじめる鼓動にじわりと冷たい汗をかく。地面のふるえとも空気のふるえとも知れないものを身体は確かに感じ取っている。
 そして重い身体にもがき、指先に力を込めた瞬間に携帯が鳴る。
 いつ聴いても絶望する音だ。
 しかし僕はその呼び出しに応じずにいることはできない。もう三年以上も前に、僕はこのひそかな戦いに身を投じることを決めた。そこにしか僕の居場所はなかった。
 後悔はしていないし、今後やめるつもりもないが、気の重い状況ではある。
 疲労は積もり積もって足もとから僕を侵食し、次第に僕の身体の自由を奪う。
 玄関の鍵をかけたところで僕は立ち尽くした。ほんの一時間ほど前まで僕が眠っていたベッドはすでに冷えてよそよそしく、その広くもない部屋の全体が僕を拒んでいるように思えた。
 どうしていいのかわからずに、しばらくぼんやりと立っていた。血の通わない置物か何かになった気分だった。
 このままじゃだめだ。足を動かして、ベッドまで行って、服を着替えて、朝までに少しでもいいから眠らないといけない。気持ちを鎮めて、笑顔で『彼女』に挨拶できるようにしないといけない。
 そう判断するだけの理性は残っているのに、僕の足はなかなか動き出そうとしなかった。玄関の扉の隙間から忍び込んできた風を手の甲に感じて、寒いな、と初めて思った。

『彼』の声が聴きたい。

 ふいにその低めの、投げやりなようでいてやさしい響きを思い出した。それはきっと電解質をたくさん含んだ水みたいに僕の乾いた鼓膜に沁み入るだろう。ただひとことでいい。僕を労ってくれなくてもいい。どんなぶっきらぼうなものであっても、彼の声を聴けるなら。
 だけどそんなことができるはずがなかった。時刻は四時で、彼は熟睡しているだろう。いくらなんでもこんな時間に電話なんてかけられない。
 メールなら。
 でもメールなんか送っても、朝まで気づいてもらえない可能性は高い。それにメールでは声が聴けない。
 どちらにしても無意味だ。
 そう考えながら僕はまだ玄関に立ち尽くしていた。次第に体が冷えてくるのを感じた。冬なのだ。霜が降りるほどでなくても、このまま朝までずっとここに立っていることはできそうにない。凍えてしまう。風邪をひいてしまう。
 眠らなければといったって、こんな場所で眠ったのでは凍死してしまうかもしれない。自分の家の中でそんなことになったら笑えない。

『彼』の声が聴きたい。

 僕は自分の内側のその欲求に逆らうことができなかった。暗闇の中で携帯電話を取り出し、アドレス帳から彼の名前を選択した。目が痛むくらいにまぶしく映るその画面を見つめ、悩んだあげくにメールアドレスを選択した。ばかみたいだと思いながら短いメールを打った。ばかみたいにストレートで情けない文章だった。こんなメールをもらったら彼はどんなふうに思うだろう。嫌な気分になるかもしれない。もやもやしたり苛立ったり、いらない心配をかけたり、どちらにしてもプラスの方向の感情を与えることはないだろう。
 送信ボタンを押してからひどく悔やんだ。携帯を手にしたままで身動きもせずにいたが、液晶画面はすぐに光を落としてしまい、あたりはまた真っ暗に戻った。
 寒いな。
 再び思った。
 彼からすぐに返事のあることは期待していない。朝になって彼が目を覚ます前に、フォローのメールを入れたほうがいいんじゃないかと煩悶する。疲れていたのでつい、とか、相手を間違えたとか、寝ぼけていたんですとか、いくらでも言い訳のしようはあるだろう。
 早いほうがいい。
 そう考えながらまたぼんやりとして、数分ばかりが経っただろうか。ふいに僕の手の中の携帯はふるえはじめ、明るくなった液晶にメール受信の文字を浮かび上がらせた。
 ありえないことに、彼からだった。
 息を詰めて開いたそれには『ねむい』とただ三文字だけが書かれていて、僕は画面を凝視した。
 やはり彼は眠っていたのだろう。そして僕のメールによってそれを邪魔された。だとしたらこれは眠りを邪魔されたことに対する怒りの言葉なのかもしれない。しかしのどかな三文字の字面はそんな感情などはまるで伝えてこず、僕には彼が今とても眠いのだという文字通りの意味しか掴むことができなかった。
 僕はどうしたらいいんだろう。
 ごめんなさいと謝罪のメールを送り直すか。でもそれではまた彼の眠りを阻害する事態に陥る可能性がある。同じ謝罪をするにしても、朝を待つほうがいいのではないか。
 僕の心は乱れた。初めから重かった足も、なかば凍りついていた指も、いまや思考回路までもがほとんど停止して、いくら疲れているからといってあまりにも僕は役立たずにすぎた。
 そうこうするうちにまた時間が流れ、今度こそはもうあきらめて僕は眠ってしまったほうがいいと判断しかけた。そのときだった。
 再びメールが届いた。そこには『おまえのせいでめがさめた』とだけ書かれてあった。
 また僕は混乱したが、それはさきほどまでのものとは少し内容が異なっていた。
 彼は今起きている。僕のせいで目が覚めたのだという。それをわざわざ伝えてくるということの意図を僕はふたつしか思いつかない。もし彼が僕を咎めているのでなければ、彼は僕に電話をかけてきてもいいと言っているのだ。
 多分。
 本当に?
 ひどく迷った。しかしこれ以上待っていても彼からアクションがあるとは思えない。僕が決めなければならなかった。僕が。
 彼に電話をかけるかどうかを。
 凍えた指先は小さくふるえた。寒さではなく緊張で。どうしよう、僕はとてつもなく愚かなことをしようとしているのではないか。そう疑いながら、なかば以上は確信しながら、それでも僕の指は確実に彼の携帯の番号を押した。
 しんと冷えた夜の沈黙が耳に痛かった。待っていた時間はワンコール分に満たなかっただろう。最初、声ではなく、ごそごそした身じろぎの音が聞こえた。それから長く物憂げな息づかいと。
『……おう』
 彼の声だった。
 急に勢いよく血が流れはじめたみたいに、僕の指先はじんじんと痺れた。
「起こしてしまいましたか」
 何かを喋らなければならなくて、僕はとりあえずそんな意味のない言葉を口にした。『ああ』と彼の声は答えたが、そこには怒りも憤りもとにかくあまり感情の色というものがなく、ただひたすらに眠そうだった。
 本当は、彼の声が聴きたかっただけで、話したいことがあったわけではない僕の目的はすでに達成されたも同然だった。だけど、彼の声はあまりにも心地好く僕の中に沁みとおり、冷え切ってからっぽだった胸をあたたかく満たしたので、このまま電話を切ってしまうことなどできるはずがなかった。
『おまえはこんな時間までずっと起きてたのか?』
「いえ。……一度眠って、それから夜中に起きたんです」
『今からもっかい寝ろよ』
「そうしようと思ったのですが、目が冴えてしまって」
 彼はきっと僕の事情を察している。僕がほんの少し前まで閉鎖空間の中にいたこと、戦っていたこと、なんとかまた生き延びたこと、なのにさびしくて死んでしまいそうなこと。
 全部知っていて、それでも尋ねないのが彼のやさしさなのだと思った。
 身体から力が抜けて、ふらついた拍子に背中が玄関の扉にぶつかった。とても冷たい。
「今日は冷えますね。あなたは寒くはありませんか?」
『……俺は大丈夫だ。頭から布団をかぶってるからな』
 ああそれで声が少しくぐもって聞こえるのか。夜中の電話の声が外にもれないようにと家族に気をつかい、すっぽり布団をかぶっている彼の姿が目に見えるようだった。僕は小さく笑い声をもらした。
『笑うな。おまえこそ寒いならもっとあったかくしとけ。へたに風邪で休んだりしたらハルヒが怒るぞ、精神修養が足りてないってな』
「そうですね」
 彼女がそんな無茶を言うのはきっと彼に対してだけだと思うが、あえて僕は反論をせず、ようやくコントロールを取り戻した足を動かして、奥の部屋に入った。服を着替えるのが面倒で、上着だけを脱いでそのままベッドに横になる。そこは思ったとおりに冷え切っていたが、毛布にくるまれば次第に僕の体温であたたまった。
「あなたのおかげで凍死しないですみそうです」
『なんだそりゃ』
 彼がかすかに笑う。泣きたくなるほどあたたかな声で。
 それからぽつぽつとくだらないことを話した。もともと用事があったわけではないから、どうしても散漫な内容になった。熱く語らうこともない。思いつきで口にした小さな小さな事柄に対して、ぼんやりと眠たげな口調で彼が言葉を返してくれる。ただそれだけのことが僕にとってはどんな大仰な奇跡よりも大切だった。
 特に何かの話題で盛り上がったというわけでもないし、話しつづけることにまったく理由はなかったというのに、なぜだか彼は電話を切ろうとしなかった。だから僕もそれに甘えた。
 途切れがちな言葉を重ねて、何十分も、何時間も。ついには夜が明ける頃まで。そんなに長く彼と一対一で話したのは初めてのことだった。内容はないに等しかったけれど。
「外、明るくなってきましたね」
『ああ、本当だ』
 彼の言葉の語尾にあくびがかぶさる。
「眠いですか?」
『そりゃあな。もう起きなきゃならない時間だってのになあ』
「そろそろ登校の準備をしないといけませんね」
『おまえ朝風呂派?』
「……なんでわかりました?」
『朝に偶然会ったりすると、なんかいい匂いがするんだよな』
「気がつきませんでした」
『普通、自分じゃわからないだろ?』
「そうですね」
『めんどくせえなあ、学校行くの』
「サボりはいけませんよ」
『そんなことしたらうるさい奴がいるからな』
 暗黙の了解でふたりで声を忍ばせて笑いあう。あと二時間もすれば授業が始まる時間だ。僕はそろそろ本気で支度を始めないといけない。
 だけど彼とのこの時間を手放すのが惜しくて、僕はぐずぐずと話を引き延ばした。彼の部屋の目覚まし時計が鳴る時間まで。
 そのベルの音はそんなに大きくはなかったが、僕の心臓を跳ね上がらせるには十分だった。音が鳴っていた時間は決して長くはなかった。彼がすぐに止めたのだろう。しかしそれがこの電話を切るべき時間の訪れを告げているのは間違いないことだった。
『あー、すまん。放っとくとこのあと妹と母親の波状攻撃が襲ってきてだな……』
「わかっていますよ。ではそろそろ」
『……ああ』
 そう言いながらも彼のほうから切ろうとはしない。その声にためらいが含まれているように思えるのは僕の願望にすぎないのだろうか。彼のほうでも少しは名残惜しいと思ってくれているなんてことを期待してはいけないだろうか。
『また、あとでな』
「……ええ、学校で」
 最終的に電話を切ることができたのは、彼の部屋の外から小さく妹さんの声が聞こえてきてからだった。
 ぷつりと急に途切れた音に、僕はたとえようのない物淋しさを味わった。
 学校へ行かなければならない。
 そうすれば、声だけでなく実物の彼に会える。
 そう思ったら少し元気が出た。彼に指摘されたとおりに朝からシャワーを浴びて、インスタントのコーヒーを飲んで、身支度を整えてから家を出た。
 二時間ほどしか眠っていないわりには頭はすっきりしていたが、この分のツケはきっと授業中に強烈な睡魔となって返ってくるだろう。
 通学路はほぼルートが決まっていて、彼も僕もその同じきつい坂道を歩いて登る。しかし彼と僕とでは多分時間がずれているのだろう、これまでめったにそこで出くわしたことはなかったのだが、この朝ばかりは彼の姿がどこかに見つかるのではないかと、不必要にあたりを見まわした。なのにやはりそうそう偶然というのはないもので、僕はひそかな落胆を抱えてひとり九組の自分の席へとたどり着いた。
 予想通りに授業はおそろしく眠かった。昼食の時間も食べながら眠りそうだった。必死でそれと戦いながら、僕はずっと彼のことばかりを考えていた。放課後になるまで会えないなんてほぼ毎日のことなのに、今日に限ってはそれがひどく耐え難く思えた。
 会ったところで何を話したいわけでもない。一緒にしたいこともない。それでもただ彼に会って声を聴きたいと願いつづけていた。
 半分眠りの中にあるようだったぼんやりとした時間をすごし、ようやくやってきた放課後に、僕はいつもと変わらず、SOS団の部室へ向かった。僕が一番最初だった。長門さんさえいない部屋に入っていつもの場所に座ると、そのうち長門さん、朝比奈さん、涼宮さんの順番で人が増え、部屋の中は次第にあたたかな気配に満ちた。
 最後にやってきたのが彼だった。彼は僕の顔を見るなり笑い出し、「すごい顔だな」と言った。「あなたもですよ」と僕は言い返した。彼はものすごく眠そうな顔をしていたが、きっと僕も同じようなものなのだろう。
「なんなの、あんたたち」
 涼宮さんはあきれ顔でそう言ったが、僕は説明するつもりはないし、多分彼もそうだ。非常にささやかながら、これは僕たちの秘密の領分に属している。
 ふたりして笑いあうと、幸せすぎて胸が痛くて、そしてやはり眠くて眠くて、今ここで横になったらさぞかしいい夢が見られるのだろうなと思った。

[20071105]