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ワールドエンド

 すっと脇からペットボトルのお茶を差し出すと、涼宮さんは初めて存在に気づいたという顔で僕を見上げた。
 そこはとある病院の個室だった。彼女はベッドの枕もとに椅子を引き寄せ、長いあいだ少しの身じろぎもせずに座っていた。その背はぴんと伸び、唇はきつく引き締められていた。目に涙の気配はなく、視線は強い。しかしそのことがかえって彼女をひどく痛々しく見せていると、本人は気づいていないのに違いない。
「あまり根を詰めてはいけませんよ。今、僕たちにはできることがない。あなたまで倒れてしまっては余計に事態を悪くします」
「わかってるわ古泉くん、でも」
「交代で彼についていようと提案したのはあなただったではありませんか。僕たちを信用してください。少し休んでおかないと、急な何かが起こったときに対処できなくなりますよ」
 彼女は僕をじっと見つめた。そんなことは彼女にだってわかっているのだ。僕たちを信用していないというのでもない。ただ彼女はひどく不安で、いてもたってもいられなくて、ここを離れることが怖いのだ。
 とてもあたりまえの、心やさしい少女の反応だ。
 僕はふと彼女に哀れみをおぼえる。どんなに強大な力を隠し持っていようと、どれほど強がり、わがままに行動しようと、彼女の心はただの十六歳の少女のものにすぎない。多くの弱さと脆さを内包していて当然だ。僕は彼女に多くを望みすぎてしまう。
「……ここの病院、控え室にあるベッドって身内にしか貸してくれないのよね。昨日はむりやり泊めてもらったけど、硬いし遠いし空調悪いし、もういっそのことあたし、家から寝袋持ってこようかと思うの」
 突然彼女はそんなことを言った。僕は一瞬面食らったが、すぐに彼女の意図を了解してうなずいた。しばらくのあいだだが、彼女はここを離れるつもりで、そのあいだの番人を僕に任せるということなのだろう。
 この場を離れることは彼女の本意ではないが、ずっといたところで何ができるというのでもなく、神経がすり減らされるばかりだ。ごく短時間なものであっても、彼女には休息が必要だ。
 涼宮さんは軽く目の上を手の甲で押さえた。疲れている様子だった。『彼』が階段から落ちて病院に運ばれてからこれでまる一日と少し。周囲の止める声を聞かず、昨晩彼女は病院に泊まった。
「お茶、ありがとね」
 気丈な声でそう言って、彼女は椅子から立ち上がった。きつく握りしめていたのだろう、制服に皺がよっていた。彼女は冬用のコートを着込み、きびきびとした動作で個室の出口へ向かいかけ、そこで一度立ち止まった。
 まるでただ眠っているだけみたいな顔をしているベッドの上の『彼』にじっと視線を投げかける。
 その表情が訴えていたものに、僕はかける言葉を持たなかった。心の中でささやかれたはずの言葉にも耳をふさいだ。
 彼女は出ていき、僕は『彼』とふたりきりになった。
 たった今まで彼女が座っていた椅子にふれると、まだぬくもりが残っていた。僕はそれに座ることはせずに、彼のかたわらに立って黙ってその顔を見下ろした。
 あんなに激しく階段から落ちたというのに外傷も内出血も脳波の乱れも何も異常が見られない。そのこと自体がある意味異常とも言える、ふしぎな状態の彼だった。すぐにでも目を覚まして、いつも通りのぶっきらぼうな言葉を発しそうに見える。
 なのに彼は目を覚まさない。
 なぜだろう。そんな疑問を抱きながら、僕は深く深く足もとが沈みこんでいくような錯覚を感じる。これは世に「絶望」と呼ばれる感情だろうか。しかしまだ彼は死んだわけじゃない。このまま永遠に目を覚まさないなんてあるはずがない。絶望するにはまだ早い。
 だけど僕は、ほんの一日彼がこんな状態に陥っているだけで、自分こそが彼の身代わりになってしまいたいと心底願うくらいにひどい虚脱にはまり込んでいる。
 彼はそれほど大事な人だった。涼宮さんにとってばかりではない、僕にも、そしておそらくSOS団のほかの全員にとっても。
 ふしぎなことに、涼宮さんは今回の事件に際して閉鎖空間を一度も発生させていない。ひどいストレスにさらされているはずなのに、現状に対してこれ以上ないほどの不満を抱えているはずなのに、その強い意思は闇雲に世界を破壊するという方向に向かう気配を少しも見せない。
 それどころではないほど張り詰めているのか、それとも彼女がこの春以来遂げた精神的成長が作用しているのかわからない。この変化は彼女にとってよいものであると僕は信じる。
 その一方で、僕の中にはもやもやと割り切れない気持ちが存在する。
 彼女が真に『願望を実現する能力』の持ち主であるのなら、どうして彼はすぐにでも目を覚まして起き上がらないのか。これこそは彼女が現在最も望むことではないのか。世界をどのようにでも作り変えられる力があるのなら、彼女の無意識のうちに彼の傷はどんな致命的なものであっても瞬時に治療されてしかるべきだし、そもそもそんな怪我など負うべきでない。
 もしや彼女の能力は失われつつあるのだろうか。それとも本来即死していたはずの彼を彼女が自覚なしに救った結果が今なのだろうか。
 僕にはわからない。わからないがしかし、このままではだめだということだけはわかる。
 彼はすぐにでも目を覚まさなければならない。元通りに元気にならなくてはならない。無自覚にやさしい言葉を吐いて、僕や涼宮さんや長門さんや朝比奈さんや、ほかにもきっと多くの人の心を引き裂いたり繕ったり思いもよらない形に変えていかなければならない。
 もし彼がこのまま目を覚まさなかったなら。
 僕は手をのばしてそっと彼の首筋にふれる。ひどくあたたかい。規則正しく脈打っている。
 ぽつりと涙が落ちるのを感じる。
 まだ伝えていない言葉がある。彼の中にもきっと、たくさんの言葉が眠っている。生きてはいても、目を覚まさないのなら死んでいるのと同じだ。彼の声が聴けない、彼の思いにふれられない。
 それくらいなら、こんな世界は滅んでしまえばいい。
 涼宮さんにはそれができる。世界を思い通りに変えられる。
 今はまだ早いと彼女は考えているのかもしれない。彼を信じて待つつもりなのかもしれない。しかしこの先いつまでも彼がこの状態を維持するのなら、あるいは決定的な事態が訪れるなら、彼女はいつかその能力を発動させることだろう。
 いや、そうしてほしいと望んでいるのは僕だ。
 この世界を守るために戦ってきた僕が、その滅びを心の底から望むというこの矛盾。
 僕は歪んでいる。
 それでもかまわなかった。彼を取り戻せるのならどんなものでも差し出した。僕は涼宮さん以上に自分勝手なのかもしれない。彼女があれほど気丈に耐えているというのに、僕はこの涙をとめられない。
 今だけだ。ほかに誰も見ていない今だけ僕に自由を許してほしい。
 僕は声も出さず、ただ静かに涙をこぼしつづけた。
 指の背にとくとくとやさしい彼の脈動を感じながら。

[20081219]