終わらない夏の終わりに
八月十七日
これぞ夏、という感じに徹底的に晴れた八月十七日。いつもの駅前の広場に立ちながら、僕は街頭の時計を眺めていた。午後二時まであと十五分。
今だ。あの角を曲がって「彼」が現れる。
そう僕が思ったまさにその瞬間、彼は姿を現した。少し猫背でだるそうな、まあ言ってしまえばどこにでもいる平均的な男子高校生だ。中肉中背で、顔立ちにもとりたてて特徴というものがない。人目を引かないその姿はしかし健やかで、人好きのするおだやかさを持っている。
「遅いわよ、キョン。もっとやる気を見せなさい!」
涼宮さんにいきなりそんな風に叱られた彼は辟易とした顔をしているが、決して心底から嫌がってはいない。さりげない懐の深さで涼宮さんの叱責を受け流し、朝比奈さんに笑顔を向ける。彼のそれは朝比奈さんに対してだけは常に惜しみない。
少し面白くない気持ちがして声を割り込ませると、彼はうんざりとした顔を見せたが、その表情ほどには彼は僕を嫌っていないと知っている。
つづいて僕の隣にひっそりと立っていた長門さんに転じた彼の視線には、慈しみとしか表現のしようのない感情が表れていて、見ているだけで胸がじわりとあたたかくなった。
「それじゃあ、全員も揃ったことだし、出発しましょ!」
涼宮さんが快活に声を張り上げる。行き先は市民プールだ。よく考えてみれば、妙な超能力が突然宿った十二のときから、そんな場所には一度も足を踏み入れていない。SOS団に入団させられて以来、僕は長いあいだ忘れていたそうした子供らしい時間や体験というものを次々と取り戻しつつある。
少しとまどいながらも、それが不快というわけではないのが自分でもふしぎだった。神とも恐れ敬うべき――個人的にはひそかな憎しみの対象だったこともある涼宮さんに、今では僕は感謝しなければならないような気までしている。
「失った時間は決して取り戻すことはできないのよ。だから今やるの。このたった一度きりの高一の夏休みに!」
意外にそうでもありませんよ。僕はたった今、青春とでも呼ぶべきものを取り戻しているところです。
涼宮さんの声を聞きながら僕はそう思ったが、もちろん声にはしなかった。失った時間は取り戻すことができない。しかし別の形でやり直すことは可能だろう。とはいえ、この高一の夏休みが一度きりの貴重なものであることを、僕にしても疑いはしない。
自転車を引き出してくると、僕のうしろに朝比奈さん、彼のうしろには涼宮さんと長門さんが乗ることになり、一同は出発した。
そういえばこの自転車は、今朝になって突然思い立ち、機関に用意してもらったものだった。これまでは徒歩と電車、それに加えて運転手つきの乗用車だけで足りていたものが、どうして急にと自分でも不可解に思う。しかしこうして即座に役に立ったのだから、思いつきというのも案外悪いものではない。
三人乗りで必死で自転車をこぐ彼に、少しだけふりかえって微笑みかける。そんな腹立たしそうな顔をしても怖くありませんよ。あなただって、なんだかんだ言いつつこの状況を楽しんでいる。
涼宮さんと朝比奈さんと長門さんとあなたと僕と、五人が一緒に、屈託なく遊んでいられるこの瞬間を、平和と呼ばずしてなんと呼ぶべきだろう。
市民プールは僕の予想をはるかに越える混雑ぶりだった。しかし涼宮さんはそれにまったく頓着した様子もなく、子供たちと浮き輪の群れの中に勇猛果敢に飛び込んでいった。それからほどなくして行われた団員対抗五十メートル自由形競走の勝者は、やはりと言うべきか長門さんで、それにむきになった涼宮さんが再戦を挑み、やがて女性陣三人は子供たちと水球ごっこを始めてしまい、僕と彼とは並んでプールサイドに座り込むことになった。
彼とは気がつくと、こんなふうにふたりだけになることが多い。女性たちがパワフルすぎて取り残されているとも言えるが、それよりは単に、女子三人に対する男子ふたりということで、涼宮さんの中に一応の線引きが存在するのだろう。
神の恩寵のようにして与えられる、部室で淡々とボードゲームにいそしむ時間、帰り道にたわいない言葉を交わす時間、それ以外のさまざまな彼との時間が僕は好きだった。
「楽しそうですね」
涼宮さんたちを眺めながら話しかけると彼の視線がこちらを向いた。うだるような陽気の中、交わされる言葉もどこか気だるい。あまり気乗りした様子ではない彼は、それでも律儀に返事をくれる。ときどきわざとらしいため息をついたりするのが微笑ましくて、僕は軽く鼻を鳴らして笑い――。
ふと、身体を傾けて、彼にそっとキスをした。
――わけはない。
え?
突然に訪れたあまりに鮮明なビジョンに僕は身をすくませた。心臓が早鐘を打ち始める。動揺にどっと体中から冷たい汗が噴きだす。
なんだ今のは。僕が彼にキスを。いや、そんなことはしていない。ただの僕の想像の中のできごとにすぎない。それが証拠に彼がふしぎそうな目をして僕を見ている。
「どうした」
「いえ……」
僕はなんとか自分をなだめ、いつもの微笑を形作った。
「たぶん僕の気のせいです。春先から色々あったせいで、ちょっと神経質になっているだけでしょう。あ、上がってこられましたよ」
ちょうどいいタイミングで涼宮さんがこちらへ歩いてきたから、なんとかその場をごまかすことができた。
朝比奈さんお手製のサンドイッチが披露され、全員で賞味する段になっても、僕の動悸はおさまらなかった。すぐに彼へと引き寄せられそうになる自分の視線を制御するのに必死で、おかげでサンドイッチの味なんてまったくわからなかった。
僕はどうしてしまったんだろう。
遊び疲れて市民プールをあとにして、次に涼宮さんが向かったのは駅前のいつもの喫茶店だった。
「これからの活動計画を考えてみたんだけど、どうかしら」
そう言って彼女がテーブルの上に置いたのは、A4ノートを破りとったとおぼしき紙が一枚。そこにはアグレッシブな彼女のヘヴィーな夏休みプランがずらりと書き出されていた。
これはすごい。すべてを消化しようとすると、これから八月末日までのほぼ毎日を費やさなければならないだろう。
僕としてはそうすることになんの異議も不満もないわけだが、かといってここに新たな項目をつけたすのも自殺行為だろう。だいたい彼の目が余計なことを言うなよと睨んでいる。
ほかにやりたいことはないかという涼宮さんの誘いかけを辞退し、僕はテーブルの上の用紙を手に取った。
「ちょっと失礼」
どうしてだろうか、そこに書かれた夏らしい行事の一覧にひどく見覚えがあるような気がした。さほど突飛な項目はないから、どれも子供の頃に一度くらいは体験していておかしくはない(バイトは除いて)。しかしこの既視感は……。
だめだ、思い出せない。
「どうも」
僕は紙片をテーブルに戻した。
とりあえずは翌日の計画を立てなければならかったが、涼宮さんは常のおおらかさで細かいことは考えていないらしい。まずは花火大会と盆踊りの日程を調べるべきだろう。これらは僕たちの都合で日付をずらせない。
調査は僕がかって出て、まずはその結果待ちということで、その場は解散になった。全員分の支払いをするのは一番集合が遅かった彼の役目で、僕はいつもそれが気の毒でならない。
涼宮さんがいの一番に走り去り、ほかの四人はそれぞれに急ぐでもなく散っていく。
僕は、本当は、彼を呼び止めようかと思ったのだ。
昼間に妙な幻を見てしまったことと、それは無縁ではなかったかもしれない。彼と話がしたかった。いや、単に彼の近くにいたかった。
僕の中には彼ひとりを志向する、恋愛感情、あるいはそれに非常に似た何かが存在する。僕はそのことを知っている。しかしそれは十分自分の内側に閉じ込めておけるものだと思っていた。彼は涼宮さんの「鍵」であり、世界の安定を守るためには誰であろうと彼に手を出してはならない。
もちろん僕もだ。
だから僕の抱く望みなど、実にささやかなものだった。もっと僕のことを知ってもらいたい。機関抜きの古泉一樹という人間を、できれば理解してもらいたい。
それ以上は望まない。といっても、それだけでも十分に分不相応な願いだったかもしれないが。
彼に声をかけるタイミングを計り、僕は足を止めた。彼は長門さんに何か用があるのか、途中で向かう方向を変えている。僕は――
そんな彼を追いかけ、強引に腕をとってふりむかせた。彼は驚いた顔をした。その表情に煽られたのかもしれない。抱きしめると彼は抗ったが、僕のすがりつくような腕の力にやがてしぶしぶと身体の力を抜いた。
――わけはない。
またもや白昼夢だった。僕は茫然としてしまい、彼と長門さんが短い会話を終えて、別方向に歩み去るまで、一歩も動くことができなかった。
僕は本当にどうしてしまったんだろう。
> 08/18
[20070817]