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終わらない夏の終わりに


八月十八日

 盆踊りの会場は拍子抜けするほど簡単に見つかった。なんと本日、場所は市民運動場。金魚すくいのオプションも無事についてくるようである。
 涼宮さんにその旨連絡すると、早速招集がかかった。ずいぶん時間が早いと思ったら、浴衣を買いに行くところからのスタートだという。僕と彼とは浴衣を免除してもらい、普段着でかまわないことになった。それはそれで、楽ではあるが、少し残念でもある。
「あなたの浴衣姿も見てみたかった気がしますが」
 涼宮さんたちの着替えを待つあいだの浴衣売場の片隅で、そう軽口を叩くと彼は、あきれたというように肩をすくめた。
「男の浴衣姿なんか見て何が楽しいんだか俺にはさっぱりわからんね」
「そうでもありませんよ、きっとお似合いです」
 僕はにこやかに微笑んだ。そうしながらに、彼と今こうして普通に会話ができていることにほっとしていた。
 昨日あんなことがあったから――いや、何もなかったと言うべきなのかもしれないが――どこかしら落ち着かない気持ちがずっとぬぐえなかった。
 あれからどれだけ考えてみても、なぜ自分があんな幻を見てしまったのか理由がわからなかった。無理に説明しようとするなら、心の底にあった願望をそのまま目にしてしまったとか、あまりに毎日暑いのでそろそろ頭がやられてしまったらしいとか、どうとでも考えられたが、どれもあまりしっくりこない。
 原因の追究はさておくとしても、昨日のことで僕自身が彼をひどく意識してしまっていることのほうが問題だった。現実に起きてもいないことのために妙に態度がぎくしゃくしてしまうようでは彼にも変に思われる。
 とにかく普通に、いつもどおりに彼と接することを必死で心がけることにした。とりあえずは成功しているようだ。
「ハルヒはおまえのほうが似合うと言ってたじゃないか」
「それは涼宮さん流の照れ隠しというものですよ。おわかりでしょうに」
「ちっともわからん」
 彼はぶっきらぼうに言い捨てた。これ以上つつくと本格的に機嫌が悪くなってしまうと知っているから僕は自重して、皮肉な笑みを口もとに浮かべるだけにしておいた。
「お前は本当にハルヒハルヒとうるさいな」
「それが僕の役目ですから」
「ご苦労なこった」
 投げやりにそう言ってから、彼の強い目が僕を真正面から見据えた。

 ――「でもそれがお前の本心じゃないんだろう?」

 そう言われた気がした。いや、違う。彼のくちびるは動いていない。幻聴あるいは都合のいい妄想、それとも彼の心の声が聞こえるようになったのか。
 幸いなことに立ちすくんでいる時間はあまりなかった。涼宮さんたちが試着を終えて、僕たちの前にお披露目に現われたのだ。
 女性たちそれぞれの浴衣姿は、かけねなしの本当によく似合っていた。
「可愛いわ! さすがはあたしね。あたしのやることに目の狂いはないのよね! あなたの浴衣姿にこの世の九十五%の男はメロメロね!」
 自分で選んだ朝比奈さんの浴衣に涼宮さんは激賞の言葉を贈った。彼が残りの五%はなんなのかとか、言わずもがなの質問をすると、涼宮さんは爛々と目を輝かせた。
「この可愛さはガチなゲイの男には通用しないの。男が百人くらいいたら五人はゲイなのよ。よおく覚えておきなさい」
 なんでそこで僕のほうを見るんですかあなた。あいにく僕はゲイではありませんよ。
 浴衣選びが終わってからも、盆踊りの時間までにはかなり間があった。僕たちは駅前の公園で時間をつぶし、夕暮れ時をみすまして、市民グラウンドへと向かった。
 日没前だというのにすでに人でにぎわっている会場に足を踏み入れると、ふいにひどく懐かしい感じに襲われた。中央の櫓や色とりどりの屋台に提灯、昼間の熱気のさめやらぬ生ぬるい空気の中に、子供のはしゃぎ声やさざなみのような笑い声が満ちている。
 盆踊りや縁日なんて何年ぶりかのはずなのに。
 僕が呑まれたように櫓の明かりを見上げている横で、彼もまたどうしてか、少しぼんやりした顔をしていた。何かを思い出そうとしているような。
 しかしそうした物思いの時間を我らが団長殿は許してくれない。朝比奈さんを拉致同然に金魚すくいの屋台へ連れ去るのに要した時間は一瞬だった。僕もそれについていこうとしたのだが、金魚すくい勝負は彼に拒まれ、結局長門さんと彼がお面の屋台へ歩いていくのに黙って同行することにした。
 彼がかまってくれないのはつまらない。しかし、長門さんと彼とが仲のよい兄妹のように歩いているうしろ姿はひどく僕の心を和ませた。いくつもの屋台の前を通りすぎ、様々な色彩とかけ声と熱気の渦をかきわけた。何を買ったわけでもなかったが、僕は奇妙に楽しい気分になった。こんな空気を久しく味わったことはなかった。
 ほんの小さな頃に母に手を引かれて縁日を散策したことを思い出した。今思うとつまらないおもちゃや身体に悪そうな色のお菓子が欲しくて、散々にねだって、ごねて、わがままを言った。その頃の僕は年相応で普通の子供だったのだ。母と手をつないでいることに妙な気恥ずかしさを感じて、なんとかそれをふり払おうと必死になったりもした。
 あんな時間はもう二度と戻ってこないのに、まったくの子供だった僕は、その価値をまるでわかろうともしなかった。
 今は誰とつなぐこともない、からっぽの手のひらを見つめて少し悲しくなった。
 その瞬間だった。
 いつのまにかお面を買い終わっていたらしい彼が急に大股で引き返してきたかと思うと、ぐいと僕の手を掴んだ。
「そろそろハルヒたちと合流するぞ」
 そのままなぜか怒ったような表情で、ぐいぐいと僕の手を引いて歩きだす。それはまるで僕と彼とが手をつないでいるのにも似た状況で、あまりのタイミングのよさに僕は少しばかりうろたえた。
 彼には僕の望んでいることがわかってしまうんだろうか。
 そうしていた時間は長くはなかった。五人が揃った瞬間からそこは再び涼宮さんの独壇場で、炭坑節を踊る人々をひとしきり眺めたあとは縁日をひやかし、それから露天で買った花火セットを持って近くの河原へ移動した。
 こんなふうな花火も何年ぶりだったか知れない。楽しかった、楽しかった、楽しかった。無邪気に吹き上がる火の粉に歓声を上げる涼宮さんや、僕以上になにもかもを珍しがっている朝比奈さんや、淡々とへび玉を見つめている長門さんや、彼女たちを写真に収めることに夢中になっている彼を、僕は一歩離れたところから見ていた。
 見ているだけで胸がいっぱいだったのだ。
「おまえはやらなくていいのか」
 そう言って彼がごく平凡な花火を数本押しつけてきたときには、「ありがとうございます」と僕は微笑んだが、本当はそれすら必要ないくらいだった。
 花火が終わると涼宮さんは早速明日の予定を立て始めた。今度は昆虫採集らしい。セミ採り合戦をして、優勝者には一日団長の権利が与えられるそうだ。涼宮さんの提案はいつも幼い子供みたいで微笑ましい。
 花火の後始末は彼と僕の役目だった。女性たちと別れると、ゴミを捨てられる場所を探して彼と一緒にしばらく歩いた。ちょうどいいゴミ箱のようなものは見つからず、申し訳ないがこっそりとコンビニの外のゴミ箱に捨てさせてもらった。お詫びのかわりに店内でペットボトルのドリンクを二本買い、車が一台も停まっていない駐車場でそれを飲んだ。
 ふしぎなほどにおだやかな時間だった。空は晴れていたが、雑多な街の明かりで星などはほとんど見えない。自然にそれを眺めて無口になった。そのこと自体がもしかしたら僕にしては珍しいことだったかもしれない。彼の前では特に意識して饒舌な人格を演じていた。
「おまえ最近情緒不安定なんじゃないか?」
 ふいに彼からそんな言葉をかけられて、どきりとした。昨日から奇妙な白昼夢をしばしば見ている僕は確かに正常とは言えない。
「そうですか?」
 しかしそれを認めてしまうこともできず、僕は首をかしげて尋ね返した。彼はごまかされたと受けとめたのだろう、不満気な表情をして僕をじっと見つめた。
 そのとき襲ってきた既視感は、これまでの中で一番強かった。

 このあと、僕と彼とは小さな口論をするだろう。彼は僕を誤解して、僕はついにそれに耐えられなくなるだろう。僕は彼にキスをする。それ以上のこともする。彼はふしぎなことに逆らわない。彼の体温も口の中の温度も、蒸し暑い気温よりもずっと高い。のぼせあがりそうになりながら僕は彼の叱責を聞く。叱られているのに胸が苦しいほど嬉しい。コンビニの駐車場で不埒に男ふたりで抱きあっている状況に気づいて彼と一緒にばかみたいに笑う。僕のアパートへ移動する。夜道で誰も見ていないからと手をつないで、それは盆踊り会場の露店の人ごみをかきわけていたときとは全然違うめまいのするような感覚だ。彼の指のあいだのわずかに汗ばんだ感覚に興奮し、早く早くと足を早めて、ついには駆け足のようになって部屋に駆け込む。彼の手も僕の手も、同じ花火の火薬の匂いがする。それから僕は、それから――

「古泉」
 名前を呼ばれてようやく我に返った。
「どうした」
 見つめてくる彼の目は平静だった。少なくともそう見えた。そこには僕が見た幻の中の狂熱なんかはどこにもなくて、僕は突然氷点下に叩き込まれたような寒気を全身に感じた。
「僕は……」
 血の気の引いた頭ではまともな言い訳など何ひとつ思いつかなかった。みっともないほどにうろたえた僕は、ほとんど最終的な手段を選択した。
 つまりは逃げたのだ。
「すみません、先に帰ります」
 それだけの言葉を口にすると、僕は後も見ないで走り出した。おい、と彼の声が追ってくるのが聞こえたが、立ち止まることなんてできなかった。彼の顔を見て、彼の声を間近に聞いていたら、自分が何をするか自信がなかった。
 どうしてこんな。なんでこんな。
 しばらく走って息切れがして、彼が追ってこないことを確かめてから足を止めた。暑さによる汗なのかそれとも冷や汗なのか、どちらかよくわからない水分でシャツが気味悪く背中に貼りついていた。
 必死で呼吸を整えるあいだも、ガンガンと痛む頭で僕は考えつづけていた。
 僕は本当におかしくなってしまったのかもしれない。

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[20070818]