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終わらない夏の終わりに


八月二十六日

 昨晩遅くから降り始めた雨は、朝になっても止む気配がなく、しとしとと地面を濡らしていた。長らく晴れの日がつづいていたから、ある意味それは恵みの雨だったかもしれない。
 しかし我らが涼宮団長にとって雨は邪魔者でしかないらしく、朝方、盛大にむくれた声で電話が入った。
「では今日は一日フリーということでよろしいですか?」
『そうじゃないの。雨が降ってて困るのは、屋外にいるときだけでしょう? だったらたまには屋内で遊ぶのもいいと思って。ボーリングとビリヤードが一ヶ所でできるところがあるから、そこへ行きましょう。集合は午後二時、駅前ね』
「了解しました」
 僕がそう言って電話を切ると、隣にいた彼が小さくため息をついた。
「やれやれ」
「それ、あなたの口癖ですね」
 僕は含み笑うと彼のくちびるに指先でふれた。彼は眉根を寄せてそれを見下ろすと、がぶりと僕の指を噛んだ。力が加減されているので痛くはない。
「……それは僕を誘っていると解釈してよろしいのでしょうか」
「ああ?」
 彼は慌てたそぶりで身を引いた。
「そんなわけあるか」
「そんなわけ、ありますよ」
 ささやき声とともに彼のむきだしの首筋に手のひらを這わす。熱いくらいの体温、血管の脈動を感じる。それから彼の喉笛がごくりと上下する気配。
「……期待、してます?」
「おまえはいっぺん冷水でも浴びて頭を冷やしてくるべきだな。ベランダで滝のかわりに雨に打たれてくるっていうのもいいんじゃないか? 心頭滅却だ、涼しくなるぞ」
「あなた恥ずかしがってるときは口数が増えますよね」
 僕は彼の喉にくちびるを寄せる。手は、肩から背中をたどってすでに腰へと侵攻を開始している。服なんか初めからほとんど着てはいないから、脱がせるのも味気ないほど簡単だ。
「おまえはこういうときだけ口数少ないな」
「話すことよりすることに集中したいんです」
 にこりと無邪気に笑うと彼は黙った。お許しが出たということだと解釈して僕は行為を進めた。本格的に拒絶されたら引き下がったかもしれないが、彼がそうしないだろうということは、なんとなくでわかっていた。
 僕のアパートの部屋に彼は昨日も泊まった。僕が無理に誘ったというのではない。彼のほうからそうすると言い出した。
 彼はきっと、僕の態度がおかしいことを敏感に察し、気遣いの心からそうしたのだと思う。
 しかしふたりきりで密室にいて、何も邪魔するものもないとなったら、欲望に忠実に行動してしまうのは仕方のないことだった。そんなわけで特に実のある話をするでもなく、僕たちは何かというと戯れ、セックスをし、うとうとして時間をすごしてしまった。
 もっともそこにはいくぶん僕の意図も含まれていた。
 余計なことを話してしまってはいけない。
 このシークエンスを未確定のまま葬り去ることを僕が決意したなどと、彼に知られてはならなかった。
 知れば彼は怒るだろう。そんな気がする。忘れることを前提にした関係なんて、彼が受け入れるはずがない。これは裏切りだと僕を非難することだろう。
 実際その通りなのだが、僕は彼にそんなことを言われたら、きっと後ろ暗くも喜んでしまう。浅ましくも幸せを感じてしまう。
 だから知られないままがいい。
 彼の皮膚のあらゆる場所を僕はくちびるでたどる。嫌がられるようなところも、感じすぎるところも、すべて、ねだって、快感で溶かして、何も考えられないようにして、その隙に奪い取る。そんなことをしてもあと一週間も経てば僕は全部を忘れてしまう。わかっている。それでもやめることができない。僕の愛撫はいくらか執拗にすぎていただろう。ときどき彼を泣かせてしまって深く反省をした。なのにまた気がつくと同じことをくりかえしている。今の僕には学習機能というものがない。
「おまえ本当におかしい」
 ようやく本格的につないだ身体の下で、彼がかすれた息のあいまにそう言った。
「何がそんなに不安なんだ」
「……こんな時間があと一週間で終わってしまうと思えば、誰だって不安になるのではありませんか」
「本当にそれだけか」
「ほかに何があると?」
 僕は彼に嘘をつく。涼しい顔で、微笑みまで浮かべて。
 僕は卑怯者だ。


 午後の集まりは始終平穏だった。ボーリングをすれば涼宮さんと長門さんがストライクとスペアの連続で首位争いを繰り広げ、朝比奈さんはガーターの女王、僕と彼とは、まあそこそこ平均あたりのポイントで、可もなく不可もなくといったところだった。ビリヤードもまた同様に、やる前から予想のつく展開で波乱は一切なし。涼宮さんは今ひとつ盛り上がりに欠けると言いたげな表情だった。
「やっぱり屋内ってだめよね、夏らしさがないのよね」
「季節を問わずにできてしまいますからね」
 どっかりと女性らしからぬポーズでソファに腰かけた涼宮さんを中心に、僕たちはそれぞれ自販機で買ったペットボトルを持って集まっていた。とりあえず休憩ということだったが、このまま解散になる可能性は高い。涼宮さんが不満そうな顔つきをしているからだ。
 とはいえ彼女の憂鬱レベルはいまだ閉鎖空間を生みだすほどには達していない。幸いなことに。
「せっかく夏なんだから、夏しかできないことをやらなきゃいけないのよ。そうでしょ?」
「ごもっともです」
「でも建物の中に入ると冷房が効いてるから意味ないのよね。なのに明日も雨だっていうじゃない。ああもうどうしたらいいかしら。ねえ何かない? 夏といったらこれっていうナイスなプランとか」
 彼女は自分で考えることを放棄して、みんなのほうへ身を乗り出した。それに皮肉な口調で応えたのは彼だった。
「おまえネタが尽きたんだろう」
「なっ、違うわよ!」
「だったらそろそろおとなしくしとけ。何もしないでだらだらするのも夏休みの醍醐味ってもんだろ」
「そんなのはひとりでできることじゃないの。あたしはみんなと一緒に遊びたいのよ」
「あー、はいはい」
 相変わらず彼と彼女のかけあいは軽妙で、ひどく釣り合いがとれている。僕の胸はちりちりと痛む。もちろん顔には出さないけれど。
「条件を整理してみてはいかがですか」
 彼らの会話の邪魔をしたかったわけではないが、僕はさしでがましくも口をはさんだ。
「ひとりではできず、夏らしく、そして家の中でできること、ですよね。なかなか限定されています。この場合、夏らしいというのはつまり、暑いということでしょう。家の中にいながら暑く、そして集団で行うことといったらなんでしょうか」
「想像もつかんな」
 彼はすかさずうんざりした顔で否定的な語句を吐き、朝比奈さんはきょとんとしている。長門さんはいつもの無表情。
 しかし涼宮さんは違った。突然ぱっとあたりを明るくするような笑顔になり、
「あたし大事なことを忘れていたわ」
 すっくと立ち上がって、宣言した。
「夏といったら灼熱の我慢大会よ!」
 ……そう来るとは僕も考えていなかった。
「ありがとう古泉くん、さすがは副団長ね、いいこと言うわ。それじゃあ明日は有希の家に正午に集合ね!」
 涼宮さんは長門さんの都合も聞かずに決めてしまった。とはいえ長門さんが否と言うわけがない。無言で小さくうなずくおかっぱ頭を確認したのかどうか、涼宮さんは今日一番の輝く瞳で全員の顔を見まわした。
「みんな明日は真冬の恰好をしてくるのよ。ニット帽とダウンジャケットは必須ね。手袋とマフラーなんかもあったらいいかも。有希とはこれから特別な打ち合わせをするわ。みくるちゃんも手伝って。そのほかの人は、今日はこれで解散!」
 そのほかの人といっても、僕と彼しかいないわけだが。
 なんにせよ、解散を宣言されて無理に留まることもない。どことなく暗鬱な足取りで僕たちは並んでボーリング場を出た。
 古泉、と彼がぼそりとつぶやいた。
「俺は今、ものすごくおまえを絞め殺してやりたい気分だ」
「ああそれは……僕もいささか同意いたします」
 明日はどんな苛酷な試練が待ち構えているのだろうか。想像するだに気が重い。

> 08/27

[20070826]