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終わらない夏の終わりに


八月二十七日

 長門さんの住むマンションというところに僕はこのとき初めて入った。ファミリータイプの分譲物件で、七〇八号室。そこまでは機関からの報告で知っていた。
 家具というものがほとんどなく、カーテンすらない無機質さは、彼女の非人間性をいやおうなしに浮かび上がらせるものだったが、この部屋を初めて訪れたはずの、いや、かつての記憶を持たない涼宮さんは、奇妙なことに、それについて何も言わない。もしかしたらそれは彼女なりの気遣いであるのかもしれない。
 僕自身はといえば、もう慣れっこになりつつある既視感のおかげで、この異様な部屋にも驚くことはなかった。
 朝比奈さんと彼とは、僕の反応とはまた違う、何かを懐かしむような目をしてあたりを見回している。ふたりで目を見合わせて何事かうなずきあったりもするのだから始末が悪い。
 彼は僕が朝比奈さんに近づくと怒るくせに、自分のことに関しては無頓着だ。
「さあっ、ちゃっちゃと用意を始めるわよ!」
 そう言って涼宮さんと長門さんと朝比奈さんはキッチンへ消えた。僕と彼に与えられた仕事はリビングにこたつとストーブをセッティングすることだった。冷静に考えると長門さんの家にストーブが存在するのはふしぎな気がするが、彼女のことだ、きっと必要とあらば、何もない空中から即座に取り出してみせるくらいのことはするだろう。
 黙々と作業をする彼の顔には鬱屈が一目で読み取れる。つくづく申し訳ない気持ちになったが、いまさら僕が謝っても事態を変えることはできない。僕だって深く悔やんでいるのだ。余計なことを言わねばよかったと。
 外は雨だとはいえ、放っておいても気温は三十度近くある。にも関わらず、窓を閉め切ったリビングのエアコンは暖房にセットされ、加えて石油ストーブがめらめらと燃え、すっかり冬仕様に厚いこたつ布団をかけられたこたつは最高温度にセットされ、さらには肌に貼り付けるタイプのカイロがうずたかく積まれて、テーブル上に用意されている。
 どうしよう、すでに気が遠くなってきた。
「できたわよ!」
 額から大汗を流しながら、女性たち三人がキッチンから運んできたのは、ぐらぐら煮え立つ鍋焼きうどんだった。蓋をとる前から周囲に陽炎が立っている。ストーブの上空のゆらめく大気とあいまって、今すぐ目の前に蜃気楼でも見えそうな気分だ。
「ほら、みんなこたつを囲んで座って、座って。服もちゃんと着込まなきゃだめじゃないの」
 涼宮さんに急かされ、強引に首にマフラーまで巻かれてはもう嫌とは言えない。ひとりずつの恰好はばらばらだが、どてらかダウンジャケットかスキー服かウールのコートかといった違いはあっても、これ以上は無理というほど全員が冬服を着込んで、ふくれあがっているのはすでに視覚の暴力だ。四つしか辺のない標準サイズのこたつに五人がむりやり足を入れ、割り箸が配られ、いっせいに鍋の蓋を開いて「いただきます」と手を合わせたら、いまさら逃げることなんてできるわけがない。
「七味唐辛子、たっぷりかけたげるわキョン!」
 嬉々として涼宮さんは彼の鍋を真っ赤にし、彼は変な悲鳴を上げつつ、必死で逆襲を試みていた。長門さんは無言。朝比奈さんは、
「熱いですぅ」
 と、涙目になりながら、うどんの最初の一本をなかなかすすりこめないでいる。
 僕としては淡々と、それはもう淡々と、いつでもスマイルを忘れないジェントリーで冷静な古泉一樹の役柄を演じていたつもりだったが、隣に座っていた彼が、じろりといじわるな目を僕に向けてささやいた。
「変な汗出てるぞ」
 これはなんの拷問なんでしょうね。
 実際、この過酷な灼熱地獄に平然としていたのは長門さんひとりだった。首謀者である涼宮さんですらが目をうつろにする中、長門さんは唐辛子まみれのうどんをつるつると完食し、一滴の汁も残さず飲んで、まだ物足りないと言いたげな顔をしていた。
 もっとも長門さんならば、石焼き窯の中でピザと一緒に一時間焼かれても、焦げ目ひとつつけずに出てくるだろう。
「あたし今、有希のことをものすごく尊敬したわ」
 箸を強く握りしめながら涼宮さんは悔しそうだった。それでもうどんを残さず食べているあたり彼女もなかなかつわもので、朝比奈さんなどは気を失う寸前だった。彼は暑さや熱さより先に辛さに脳をやられたらしく、机の上にふるえながら突っ伏している。僕は。
 僕は微笑みを絶やさず、なんとか激辛鍋焼きうどんを食べきった。
 しかし、そこが僕の限界だったらしい。
 ぐらぐらと視界がゆれた。急に停電が起こったみたいに周囲に薄い紗がかかる。ざらざらした音が耳もとでうるさく鳴るのが聞こえる。
「おい、古泉!」
 彼が叫ぶのが聞こえた。それから目を大きく見開いた涼宮さんの顔が一瞬見えて、それから、ちかちか光る小さな光の粒が視界を覆った。

 暗転。

 涼しい風が吹いていた。
 エアコンや扇風機のような機械的な匂いのしない、幼い頃に田舎の家の縁側で眠っていて感じた微風に似ていた。
 ゆっくりと、深い水の底から浮き上がるようにして、意識が鮮明になった。体中が重い。びっしょり汗をかいているらしく、衣服の湿った感じがする。額がひんやりしているのは濡れタオルが乗せられているからだろうか。
 僕は眠っていた?
「目が覚めたか」
 頭上から声がした。僕は薄く目を開いた。
 周囲はぼんやりと淡い陰りの中にあった。直射日光のあたらない日陰に薄い夏布団を一枚敷いて、その上に寝かされていた。和室だ。窓にはやはりカーテンはないが、かわりに障子がきちんと閉じられて、外からの明かりをやわらげている。
 ここはまだ長門さんのマンションだ。彼女の家にも布団はあるんだと、妙なところで感心をした。
「おまえ倒れたんだぞ。わかってるか?」
 やさしい問いかけは彼のものだった。僕の枕もとにどっかりと座って、うちわで風を送ってくれている。
「すみません、実は暑いのはあまり得意ではなくて」
 声は案外普通に出た。もう体調は正常に復帰したのかと錯覚してしまいそうだった。しかし起き上がろうとした僕を、彼は手のひらで額を押さえつけることでおしとどめ、もう少し寝てろと低い声で言った。
「……おまえんちがいつもがんがんに冷えてるのはそういうわけか」
「世界平和を願う身としては申し訳ないのですが、地球温暖化を促進するとわかっていても、僕はエアコンを切れません」
 呼吸の音にまぎれるような小さな笑い声を彼はもらした。そのまましばらくおだやかで静かな時間がつづいた。目を閉じてじっと身体を動かさずにいると、襖を通して隣の部屋の会話が耳に届いた。あまり大きな声で話してはいないのだろう、主に涼宮さんと朝比奈さん、ごくまれに長門さんの声もする。
「ハルヒ泣きそうになってたぞ」
 彼がひどくやさしい声で教えてくれた。
「涼宮さんに心配をかけてしまうとは、副団長失格ですね」
 それを僕は本気で言った。涼宮さんが好きなのは明らかに彼だ。しかしそれ以外にも、SOS団の面子には、別けへだてなく相応の愛情を抱いてくれているのだと知っている。僕たちはみんなで涼宮さんに隠し事をしているのに、彼女は僕たちにまっすぐな信頼をくれる。それをいつもひそかに心苦しく思っていた。
「あいつも少しは自分がいかに迷惑な女か理解するべきだ。いい薬になったんじゃないか」
 声がかすかに笑っている。だけど響きはやさしいままだ。
 僕は目を閉じている。だから彼の表情なんかは少しも見えない。
 そのほうがいい。
「キスをしてもらえませんか」
 僕の言葉はあまりにも唐突だっただろうか。うちわをあおぐ彼の手がぴたりと止まった。
「おい、隣にあいつらいるんだぞ」
「お願いします」
 静かな声でそう言った。彼はずいぶん長く逡巡していたが、ふいに素早い動きで僕の頭の脇に片手をつくと、ふれるだけのキスをした。
 僕は目を開いた。すでに身を起こし、顔を背けている彼の耳が薄く赤らんでいる。なんて幸福な色だろう。本来それは、僕などが手に入れてはならないものだった。僕はふたたび目を閉じた。
 顔を見ていたら言えないようなことを、このとき突然言うつもりになったのはなぜなのか、自分でもよくわからない。
「あなたは涼宮さんにやさしいですね」
「そんなことないだろ」
 居心地悪そうに彼が身じろぎをするのを感じる。
「僕は」
 少し、言葉を止めて、それからむりやり押し出した。
「あなたは涼宮さんのことが好きなのだと思っていました。今もそう思っています。あなたたちはお似合いですし、世界の安定のためにも、あなたや彼女のためにも、僕はあなたたちを祝福したいと思っています」
「……古泉」
「あなたがもし今、僕のことを好きだと感じているのなら、それはこのループする時間が生み出した錯覚です。次のシークエンスになれば忘れてしまう。いえ、忘れるほうがいいのです」
 彼は黙った。ひどく重い沈黙だった。あまりに空気が静まり返っていたために、隣の部屋の会話がよく聞こえた。女性たちは明日のプランを立てているようだ。天気予報では明日からまた晴れの日がつづくことになっている。
「あの、わたし、わたし、どんな服でも着ます。どんな格好でもします。だから、あの」
 これは朝比奈さんの声だ。どこか必死な響きがあるのは、もう夏休みが残り少ないことに焦り、この時間のループを抜け出すために何かをやらねばならないと、彼女なりに思いつめているためだろう。彼女は前向きに努力している。
「よく言ったわみくるちゃん! それじゃあ明日はバニーの姿で市内パトロールね!」
「ふええぇぇ〜」
 ほとんど泣いているような朝比奈さんの声。お気の毒に。
 ですが朝比奈さん、ごめんなさい。今回のシークエンスはおそらく確定されないでしょう。最低あと一回は、僕たちはこのループをくりかえす。そうしようと僕は決めてしまいました。
「……冗談だろう?」
 ぽつりと雨の最初の一滴に似た唐突さで彼の声が降ってきた。
 僕は彼に意識を引き戻される。見てはいけないとわかっていながら目を開くと、ひどく傷ついた表情をした彼がいた。
「冗談では…ありません」
「俺は言ったはずだ、おまえが好きだって」
「ですから、錯覚です」
「おまえは俺を信じないのか」
「信じられません」
 自分の言葉に自分の胸が鋭く冷えた。どうして僕はこんなひどいことを彼に言わなければならないのだろう。あとほんの数日、黙っていればすむはずだったのに。嘘も不信も何もかもを、消える時間の中に忘れてしまえたはずなのに。
 嘘ばかりの僕の中で、残酷なことに、僕が彼を信じられないというこの一点だけはまぎれもなく真実なのだった。
 彼はたまたま手を取る相手を間違えてしまった。僕はそう考えている。確率の低いその間違いが、ずっとあとまで尾を引いたのは、過去のシークエンスの記憶がわずかなりとも残っているからだ。
 消し去らなければならない。正しい道を選び直さなければならない。
 僕がそう思うのは彼に対する最後の良心のあらわれなのだと言ったら、彼はそれを信じるだろうか。
 ふいに彼が音もなく立ちあがった。その動きを目で追うと、彼は手にしたうちわを投げつけてきた。
「頭を冷やせ」
 短く言って、部屋を出て行く。おい古泉目を覚ましたぞ、なんて、隣の部屋で言っているのが聞こえる。それから周囲はいきなり騒がしくなり、僕は駆けつけてきた涼宮さんや朝比奈さんや、遠くから見守っている長門さんへの対応を迫られた。
 彼はそれから一日中、一度も僕と目を合わせようとしなかった。

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[20070827]