TEXT

終わらない夏の終わりに


八月二十八日

「もう八月も終わりが近づいています。それはつまり我々が、この一ヶ月以上にわたり、市内に頻出していたはずの超常現象を見逃してしまったということなのです。しかしまだ遅くはありません。この夏の暑さにやられてふらふら出てきた幽霊や宇宙人や妖怪たちを、我々は今からでも発見し、捕獲し、話を聞いて、場合によっては救済したり協力したり、一緒に遊んだりしなければならないのです!」
 涼宮さんの声は透き通って力強く、まことに演説向きである。へたな街頭の選挙演説よりもよほどさまになっている。
 発言内容については、この際コメントは控えさせてもらうが。
 れっきとした未来人と、いささか語弊はあるが宇宙人と、そして僕というある種の超能力者をひきつれているとも知らず、涼宮さんは自分の演説で気分が盛り上がってきたらしく、気合の入った拳を突き上げた。
「じゃあ、行くわよ!」
 昨日までの雨天が嘘のように今日は晴れていた。時間は午後で、ちょうど一日のうちの最高気温が記録される頃だ。昨日の今日ということで、僕は日焼け止めを塗って日陰でじっとしていても怒られそうにない。気の毒なのは朝比奈さんで、この炎天下にバニー姿はきついだろう。しかも人通りの多い商店街をねり歩くところから始めるというのだから、恥ずかしさは倍増だ。
 長門さんはいつもどおりで、彼もまた、一見したところは普段と変わりない。
 しかし彼は今日になっても僕と目を合わせることはしないし、近寄りもしない。涼宮さんの言動に対して辟易とした顔を作りながら、その下で僕に対する苛立ちを募らせているのがわかる。
 僕はできるだけ彼のほうを見ないようにして、集団の最後についていく。
 市内パトロールといっても、これまでに何度か経験していたものとは少し違っていた。僕たちはくじを引いて二手に別れたりはしなかった。五人そろってのんびりと歩いた。朝比奈さんのいささか恥ずかしい姿は、商店街の人々に意外に好評だった。電気店や八百屋のおじさんなんかは、その姿でうちでバイトをしてくれないかと笑って言った。泣きそうになっている朝比奈さんの健気な自己犠牲はこれで少しは報われたのだろうか。
 時間の流れは奇妙なくらいにゆっくりと感じられた。涼宮さんと朝比奈さん、そして彼が、この言い方にはやや難があるが和気藹々と話しながら、前のほうを歩いている。僕はそれに加わらず、ただ黙って聞こえてくる声に耳を傾けていた。
 彼が僕を見ない、話しかけない、もちろんふれたりもしないというこの状況は、思いのほかにきつかった。自分で壊しておきながら、数日前の罪深く満ち足りていた時間を恋しく思わずにはいられなかった。あとほんの四日ほど、彼に嘘をつくことに耐えればすむ話だったのに、実際馬鹿みたいだった。
 僕は彼が好きだった。好きすぎて、彼の幸せを願わずにはいられなかった。彼の与えてくれるやさしさはあまりにも心地よく、偽物だとわかっていながらそれに甘えることに僕は耐えられなかった。
 彼の背中をただ眺めていることに疲れ、目をそらすと、そこには長門さんの人形めいて静謐な姿があった。
 彼女はいつもこんなふうに、ほかのみんなから少し離れたところに佇んでいる。涼宮さんが強引に引っ張り出さなければ輪に加わることはない。
 彼女が何を考えているのか、その無表情から窺い知ることは難しかったが、当面の目的を同じくしていることだけは確かで頼りがいがある。
 涼宮ハルヒの観察と現状維持。それが僕たちに課せられた使命だ。
 そして彼女は名ばかりの超能力者の僕とは違い、現実に強大な能力をその小柄な身体に隠し持っている。
 そう、彼女なら。
「長門さん」
 僕の声に応えて彼女の目がこちらを向いた。先を行く三人とは、いつのまにかかなりの距離がひらいている。これならば彼らに声は届かない。
「あなたにお願いがあります。次のシークエンスにおいて、僕と彼の中にある、過去のシークエンスの記憶の残滓をきれいに消去していただけないでしょうか。この時間のループを抜け出すために、きっと必要なことです。あなたならできますよね、長門さん」
 彼女は澄んだ目をして僕を見つめた。
 彼女はどこまで知っているだろうか。何もかもだろうか。観察を旨とし、基本的に世界に干渉することを嫌う彼女がこの要求を受け入れてくれるかどうかは賭けだった。
 それでも僕にはどうしても、彼女の力が必要だった。覚えていたなら僕は先に進めない。彼か僕か、少なくとも一方は完全に、過去のシークエンスの記憶をなくしてしまわなければならない。僕自身に記憶を操作するような能力がない以上、彼女に頼るほかはない。
 彼女の薄い色のくちびるがかすかにふるえた。否か、応か。僕は息をつめて彼女の返答を待った。
 そのときだった。
「悪い長門、今のはなしだ。おまえは何もしなくていい、っていうか何もするんじゃないぞ頼むから。ハルヒたちには急用ができたから帰るって言っといてくれ」
 突然そんな声が間近なところから降ってきて、僕はぐいと腕を引かれた。
「来い!」
「……え?」
 彼だった。はるかに先を歩いていたはずの彼がどうしたことかすぐ目の前にいて、明らかに怒っている顔で僕の上腕を掴んでいた。
 僕は混乱したが、抵抗などできる状況ではなかった。僕は彼の力の指し示す方向へ否応もなく引きずられた。長門さんの姿がどんどん遠ざかり、小さくなるのを茫然と見つめた。
 人の多い商店街を離れ、道路が立体交差する、トンネル状になった暗がりの歩道にどんと突き放された。人目がなければ多分どこでもよかったのだろう。ときおり通りかかるのは車ばかりで、その騒音もまた秘密の話をするには都合がいい。
「どういうつもりだ」
「どういう、とは?」
「おまえ本気で……」
 彼は何かを言いかけて絶句した。その憤りを、美しく純粋な怒りを、僕はまぶしく見つめた。
「あなたが言ったんですよ。このループをいつまでもくりかえすことは停滞でしかないと」
 こんなときにも僕の声は平静で、僕はそれに悲しくなる。ひどく悲しくなる。
「このループを抜け出すために、忘却は必要なことなのです。あなたこそどういうおつもりですか」
「俺が言ってるのはそんな先の話じゃない」
 彼は僕の胸倉を掴んだ。その強い目が真正面に来て、僕は心臓が止まりそうな感覚を味わった。
「おまえは、もうこのシークエンスは確定しないと、諦めてしまっているんだな?」
 意外なことを訊かれた、と思った。
「……涼宮さんが心の底で何を望んでいるのかはわかりませんが、今回の僕らが建設的に、これまでにない新たな何かを成し得たとは思えません。……ええ、そうですね。このまま放置すれば間違いなく、このシークエンスは無為に終わるでしょう」
「おまえはそれでいいのか」
 問い詰める声とともに衝撃が来た。
 くちびるに。
 僕は目を見開く。彼は僕の胸倉を掴んだままでのびあがり、僕にキスをしたのだった。少しだけふれてそれは離れたが、僕の正常な思考は乱され、ひそかに荒れ狂った。
 彼の目が潤んでいる。泣いてしまいそうだと感じ、思わずさしのべようとした手を僕は空中で止めた。
 僕にはそんな資格がない。
「俺のためだとか、錯覚だとか、勝手に決めつけんな。何万回くりかえしたって俺は俺だ。今の俺の感情が間違いだなんて誰にも決められるもんか。俺は……」
 ぽろりとこぼれ落ちた涙を僕は見つめた。ひどくきれいだった。彼という安定した人格に似つかわしくない脆さがあった。
「俺は、おまえが好きなんだ。忘れるなんて……」
 泣きながら、あまりにも真摯に彼はそう言った。
 ああなんてことだろう。
 思ったとおりだ。僕は彼にこんなことを言わせて、泣かせて、嬉しいと思っている。気の狂いそうな喜びを感じている。
 僕は最低だ。こんなに。
 彼に言葉の先を言わせなかった。身体の位置を入れ替え、汚れた壁面に押しつけるようにして彼のくちびるを奪った。もう誰に見られてもかまわなかった。どうせこのシークエンスはあと数日で終わる。
 力の限りに抱きしめ、そのわずかに汗ばんだ首筋に顔を埋めた。どこか遠くで蝉の声が聞こえた。一台の車が排気音を鳴らして近づき、また遠ざかっていった。
 僕は強く目を閉じる。眼の奥が熱く潤んで、また彼の前で泣きそうになっていると気づく。それはどうすることもできない身体の反応だ。理性と感情がばらばらなことを叫んで、僕は引き裂かれている。
 忘れなければいけない。わかっているのに、それは死ぬよりつらいことだと知ってもいる。いっそ早くこのシークエンスの終わりが来るといい。そうすれば僕はこんな感情から解放される。いや、それとももう一度、同じことを一からくりかえすだけだろうか。
 一万何千回もやり直しても、すべてのループがまったく同じに進行したわけではないと、長門さんが保証している。どこかが少しずつ異なる数多の時間の中で、今回のこれはどれほど異端に当るのだろうか。ひょっとしたら唯一無二の、奇跡的な時間がこれではないか。
 そんなこと僕には確かめようがない。彼にだってわからない。
 だけど、僕は。
 すべての時間が楽しかったとは言わない。つらいことだって、苦しいことだってたくさんあった。それでも僕は、この熱に浮かされたように疾走する夏の時間を、心の底から愛おしんでいた。大切だった。
 命を奪われることよりも、忘れてしまうことのほうがよほど悲しいと思うくらいに。
「忘れたくありません」
 告白はひどく唐突に響いたかもしれない。彼は驚いたように顔を上げた。
「僕は忘れたくありません」
 たとえ錯覚でも、間違いでも、彼が僕を好きだと言ってくれたことを、どうやったら忘れたいなんて思えるだろうか。
「古泉……」
 彼が僕の名前を呼ぶ声にどうしようもなく煽られた。くちづけが降りてくる。額に、瞼に、頬に、くちびるに。
 僕たちは無心にキスをする。いっそこのまま時間が止まってしまえばいいと願いながら。

> 08/29

[20070828]