終わらない夏の終わりに
八月二十九日
肩と背中に彼の体温。互いの重みを預けあって、僕たちはベッドの上に座り込んでいる。
セックスならば飽きるくらいにもうやった。いや実際には飽きてなんかはまるでいないのだったが、とりあえず、いてもたってもいられなくなる身を灼く飢餓感は今はない。
疲れ切った身体を休めてシャワーも浴びて、冷たい水を飲みながら、ぼうっとしている。
外ではもう日が沈んでいる。カーテンを閉じなければと思うが、立ち上がって窓辺に行くのも億劫に感じる。
今日の招集は真夜中で、まだ時間は十分にある。
「疲れましたね……」
ぼんやりとつぶやくと、呼吸にまぎれるような声で「ん」とだけ返事があった。おだやかな声だ。少し眠そうだ。僕はそれに淡く微笑む。彼が僕のそばで安心して眠くなるなんて、こんな状況は二週間前までまるで予想できなかった。
いろいろなことがあったと僕はいまさらながら感慨にふける。このシークエンスが始まった初日のプールでのことなんて、もうはるか昔のことのように感じる。それ以前の孤島での擬似殺人事件体験なんて、もはや現実にあったこととは思えない。
彼との関係性を筆頭に多くのことが変化して、僕の頭はまだそれに追いついていない。
彼とこんな関係になってからまだ七日。今日でちょうど一週間だと指折り数えて本気で驚いた。
僕ひとりのものだったこの部屋のあちこちに彼の気配がある。外された彼の腕時計、置いていった服、彼が買ってきて僕と折半したコンビニのお菓子やペットボトルのお茶、その割り切れなかった小銭とレシート。机の上に出された夏休みの課題なんかは、いまだ半分くらいしか手をつけられないままに放置されている。
幸せであればあるほど終わりのあることがつらくなる。
僕はため息をつき、身体の力を抜いた。
「重いぞ」
文句を言う彼の声が耳にやさしい。甘やかされているように感じて、そのままずるずると彼にもたれかかる。
「あなたの体温が気持ちいいんです」
「エアコンの設定温度をもうちょっと上げたらどうだ」
「いやです」
彼は悪態をついたが、それでも勝手にリモコンをいじって温度を上げたりはしない。
僕は本当は知っている。夏も終わりに近づいて、ここ数日はほんのしばらく前とくらべて、かなり気温が下がっている。そろそろ最高気温は三十度を切るだろう。空気をふるわす蝉の声も次第に蜩のそれにとってかわられている。日の沈んだ今では、耳をすませば秋の虫の声さえ聞こえる。
夏が終わる。
そしてまた数日で、その盛りの時期へと舞い戻る。
めまいがしそうだ。
「出かけるの面倒ですね」
つぶやいた声には僕の諦めがにじんでいた。隠そうとしたって隠しきれない。忘れたくないとどれだけ望んでも、僕にはどうすることもできない。何をすればいいのかわからない。
僕はまだ心の底ではこのシークエンスは確定させてはならないものだと思っている。
だからどこか投げやりになる。
ふいに体重を預けていた彼の背中がなくなった。自動的に僕はベッドの上に仰向けになる。床に起き上がった彼が僕を見下ろしている。少し不機嫌な顔をしている。
「言っとくが、俺はまだ諦めてないんだからな」
彼がさしのべてきた手を僕はぼんやりと見つめた。
「起きろ。まだ時間あるから外で飯食おう。支度しろ」
彼の前向きさには本当に頭が下がる。
僕は苦笑し、彼の手をとる。あたたかく、そして力強い。やさしい手だ。
丑三つ時にろうそくを片手に墓場をうろつくというSOS団の肝試しは、へたに見つかれば処罰ものかと思われたが、幸いなことにそうした事態は起こらなかった。
欠場していたのは住職や警備員の怒鳴り声だけではなくて、肝心の幽霊や怪奇現象のほうも、さっぱり姿を現わさなかった。朝比奈さんは無闇に怯えていたが、火の玉ひとつ出てこない。もっとも、涼宮さんを筆頭に怪しいプロフィールを持つ五人づれがこうも無遠慮に歩いていたら、怪奇現象のほうが裸足で逃げ出すだろう。
涼宮さんは今ひとつ満足しきれていない顔つきで、いつになく彼はそのフォローに懸命になっていた。
涼宮さんがこの夏休みに満足をして、ループを終わらせてくれるように。
彼のそんな努力を僕はかたわらからただ見ているだけだった。僕だって真剣でないわけではない。しかし、思えば笑顔と同様に、諦観は僕にとっては癖のようなものだったのだ。
「……なんか、これだっていう感じがしたか?」
「しませんね。残念ながら」
「ああ、くそっ」
彼はひそかに髪をかきむしる。やはりそう一朝一夕に打開策は見つからない。
どんなに抗おうとも抗いきれない流れの中に、僕たちは取り残されている。
始まりがそもそも深夜だったから、肝試しが終了してもどこにも寄らずに解散となった。それでも見上げる空はすでにうっすらと明るんでいた。
「明日は駅前の喫茶店に十二時に集合よ。この夏の総括会議をするんだから、いいわね?」
「そりゃあもう明日じゃない、今日だ」
「細かいこと言わないでよバカキョン、とにかく十二時なの。今すぐ帰って寝れば六時間は眠れるわよ」
「なんだって高校一年の夏休みに六時間睡眠なんかで我慢せにゃならんのだ」
「それじゃあみんなおやすみなさい!」
「おい、ハルヒ!」
爽やかな笑顔とともに涼宮さんは踵を返す。その姿が見えなくなるまで見送ったあと、すっかり厚い憂鬱のベールをかぶった朝比奈さんが、よろよろとした足取りで帰途につく。
僕も帰ろうと思ったときに、ふいに斜めうしろから袖を引かれた。
「いいの」
長門さんだった。透明な色の目をして僕をまっすぐに見ている。彼女のほうから話しかけられたのはこれがはじめてのような気がした。
僕は彼女を見つめる。隣に立っていた彼が、意外そうな顔をして僕と彼女を眺めている。
彼女の言葉は短かったが、僕がその意味の理解を誤ることはなかった。
「いいんです」
僕は微笑んだ。
彼女が尋ねているのはこういうことだ。昨日、僕が彼女に頼んで、彼が取り消した一件。過去の記憶を消去するか否かの選択を、彼女は再度僕に確認したのだ。
忘れるべきだが忘れたくない。そのわがままを、僕は自分に許すことにした。
彼が僕をそんなふうに変えた。
「ありがとうございます」
僕がそう言うと、長門さんは小さくうなずいた。それきりひとことの言葉を発することもなく、彼女の姿は淡い朝の光の中へ消えていった。
どん、と急に背中を叩かれた。
「……なんですか」
「なんでもない」
彼はそっぽを向いている。その横顔がどこか決意を秘めて凛々しい。
あと、二日。
> 08/30
[20070829]