終わらない夏の終わりに
八月三十日
涼宮さんは、どうにも煮えきらない顔をして、机の上にひろげた一枚の紙を睨んでいる。
「これで課題はひととおり終わったわね」
コーラフロートのアイスクリームをストローの先でつつく彼女は、自分の中にある苛立ちを理解できずに困惑しているらしい。確かにそうだろう。リストアップした無謀なまでの遊びのプランはすべて消化した。書いてなかったことまでやった。ほかの全員に尋ねてみても、やり残したことなどはないと言うばかり。
この状況で足りていないことといったらなんだろう。
彼女には思いつかない。僕にもわからない。うなだれている朝比奈さんにも、微動だにしない長門さんにもわからない。彼は。
彼はずいぶん深刻な表情をしている。
ウインナコーヒーを口に運びながら僕は彼の様子を観察した。本当だったら涼宮さんにこそ注意を払うべきだったが、彼のほうが気になった。
昨日、まだ諦めていないと言った彼。しかしこれといってヒントもないままに、また一日がすぎてしまった。
どうするつもりだろうか。
腕組みをしてむっつりと黙り込んでいる彼は、ふいに顔を上げて僕を見た。空中で視線がぶつかる。苦悩の色が濃く現れている彼の目に、やさしく言ってやりたくなる。
そんなに必死にならなくてもいいんですよ。またくりかえせばいいんです、最初から。僕はあなたを好きになる。これは何度くりかえしても変わりません。あなたはどうなんでしょう。十回に一度くらいは僕を好きになってくれるでしょうか。もっと低い頻度でしょうか。でも僕は希望を捨てず、過去を忘れることもなく、何度でもあなたに恋をしようと思います。
言葉がなくても伝わっただろうか、それはわからない。
焦りを内包した彼の目の前に、そのとき一枚の紙が突きだされた。
「これで終了。明日は予備日にあけておいたけれど、そのまま休みにしちゃっていいわ。また明後日、部室で会いましょう」
涼宮さんは伝票を彼に渡すと、もうこれで話はすんだと言わんばかりに椅子から腰を浮かせる。目に見えて彼の焦りはひどくなった。
ふと、既視感に襲われた。涼宮さんがひとりで店を出て行く。そんなシーンだ。僕たちは茫然とそれを見送るだろう。それから悄然として、残された四人で話をするだろう。このシークエンスが継続するのはあと一日しかない。その時間をどうやって有効に活用するか、ここへきて初めて僕たちは真剣に考え始める。朝比奈さんはとうとう泣いてしまう。彼はそれを懸命になだめようとする。僕は彼の腕をとって立ち上がる。彼は驚いた顔で僕を見る。
どうせあと一日で何もかもがなかったことになってしまうなら、あなたのその一日を僕にくれませんか。
そんなふうに訴えることで関係がはじまった過去も、一度くらいはあるだろう。
くりかえしの中に埋もれてしまったかわいそうな過去の僕たち。彼らはそのときわずかなりでも幸せを感じただろうか。虚しさと後悔ばかりだっただろうか。わからない。
深く思考に沈んでいたためだろう、そのとき突然響き渡った彼の言葉に、僕は本気でひどく驚いた。
「俺の課題はまだ終わってねえ!」
喫茶店を出ると、店内との温度差に一瞬身体がすくむ。じわりと汗が浮かぶのは自動的な体温調節のためだが、気持ちの上ではそればかりでもない。
先を行く女性陣三人のあとをついて行きながら、僕は彼に視線を向ける。
彼の提案で、明日は彼の家で夏休みの宿題をやることになった。二年生の朝比奈さんや、とっくに課題を終えているはずの涼宮さんまでを交えて五人でだ。
過去のシークエンスにおいて彼の家で課題をやったことがあるのかないのか、それは長門さんに尋ねてみなければわからない。少なくとも僕の記憶の中にはない。
もしもこれが当たりクジだったら、僕たちは……。
彼が僕の視線に気づいて顔を上げた。そのまま無言で見つめあう。
「あなたは……」
僕は何かを言いかけたが、ちゃんとした言葉にならなかった。彼は目だけで少し笑い、ぐいと肩をそびやかして前を向いた。
> 08/31
[20070830]