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終わらない夏の終わりに


八月三十一日

 勉強会だった。文字どおり朝から晩まで黙々と勉強をした一日だった。
 彼の部屋に初めて入るという感慨も、あまりに目まぐるしく進むできごとに蒸発して消え果てた。
 余裕なのは宿題がすべて終わっている涼宮さんひとりで、まるっきり何ひとつ課題に手をつけていない彼よりはずいぶんましだけれど、僕にしたってやるべきことは山積みだった。だいたいこの夏休みがループしているとわかっていながら、無駄になるかもしれない課題を誰が好んでやりたがるだろうか。
 僕は数学の問題集をじっと見つめた。これまで僕は、この同じ問題を何回解いているのだろうか。こういうときこそすかさず既視感が訪れて、エレガントな解法と正確な答えまでが紙面に浮かび上がってくれればいいものを。
 しかしそう都合よくはいかず、結局は自前の頭を使って黙々と帳面の白い部分を埋めていくことになる。
 ちらりと目を上げると、彼は涼宮さんに散々に注文をつけられながら、手を超高速に動かしていた。なるほど、一日で課題を仕上げるにはこれほどのスピードが必要なのか。ひそかに僕は感心をした。
 彼の妹と母親は、しょっちゅう僕たちが勉強している部屋へとやってきて、彼はそれに少々邪険な態度をとるものの、そこに見え隠れする家族の愛情というものに、僕は淡い羨望を抱いた。
 僕にもまるで当然のことのように、そうしたやさしく甘やかなものが与えられていた頃があったのだ。
 そんな思いをふりきって、手洗いへ行くふりをして席を立った。案内を請えば彼が一緒に階下までついてきてくれる。本当は単に彼とふたりだけで話をしたかった。
「とりあえず、俺にはこんなふうにみんなで課題をしたっていう記憶はないんだがな。おまえはどうだ?」
「僕にもありません。しかし」
 自分から少し勢い込んで話しかけてくる彼に対し、僕は完全に楽観的な気分にはなれないでいる。
 本当にこの時間のループから抜け出せるか、それに不安を抱いているのではない。どちらかといえば僕にとっては、この二週間が永遠にくりかえされるほうがよほど気が楽だった。
 明日、九月一日がやってくれば、僕はまた新たな問題に直面することになる。機関の一員としての役割を負いながら、彼との関係をどんなふうに維持していったらいいのか、僕にはまだ見当もつかない。
 だけどそんなことよりも。
「もしこれで、このシークエンスが確定してしまったら……」
 あなたは困るのではないですか。後悔するのではないですか。涼宮さんのことがなくても僕たちは男同士で、冷静に考えて祝福されるべき関係では絶対にない。この限られた夏の秘密の思い出にしておいたほうが、どれだけか楽ではないですか。
 そう言いかけて、僕は口をつぐんだ。
 そうではないのだ。彼が何かを選んだならば、それは一時の感情なんていうあやふやなもののためではなくて――確かにいまだ十代の僕たちには先のことなんかまるで見通せはしなかったが、それでも、ほんの数日や数週間の単位ではなく、もっと長い時間の先まで、もしかしたら期限なんて本当になくて、永遠につながるくらいにずっと先まで、それが可能である限り、彼は僕の手をとってくれるつもりでいるのだ。
 明日があるというのはそういうことだ。
 突然それに理解が及んだ瞬間、僕の頭はありえないほどの幸せに混乱し、ぐらぐらとゆれた。
 実際その精神の動揺は身体にも伝わって、僕はめまいを起こしたようになり、壁に手をついて自分を支えなければならなかった。
 慌てたのは彼だ。
「どうした」
 顔色を変えて僕を覗きこむ彼に嘘をつくのも気が引けて、僕は正直に答えた。
「幸せすぎて気持ち悪くなってきました」
 あきれ果てているような沈黙があった。それから、とてもおだやかなため息が聞こえた。
「……おまえその不幸体質どうにかしろ」
 僕は笑う。彼も笑う。明日は来ても来なくてもいい。どんな種類の結末だろうと、僕は彼が与えてくれるものならば、なんであれ従順に受け入れるだろう。あと数時間で僕はこの瞬間を忘れてしまうかもしれない。しかし確かにこのときここに、この奇跡のような時間が存在したことを、神様だけは知っている。

> 09/01

[20070831]