終わらない夏の終わりに
八月十九日
「昨日はすみませんでした」
顔を合わせるなり涼しい笑顔で謝ると、
「毎日暑いからな。疲れてんだろ」
彼はぶっきらぼうにそう言った。それが彼の気遣いだった。ふれてほしくないと思っていることの核心に彼は決してふれてこない。人との距離のとり方に長けているのだと言えるかもしれない。
そして彼はやさしい。ひどくやさしい。
「さあ出発よ!」
のびやかな涼宮さんの号令に従い、山を目指して歩きだしたその日は、よりにもよってその夏一番の猛暑だった。
道は通いなれた通学路の坂道だ。北高は山の中にあるため、木々の多く茂った場所を求めて歩くと自動的にそちらへ向かうことになる。
校舎はスルーし、その周辺の雑木林の奥へと分け入ると、ようやく少しは息がつけるようになった。こもれ日の散る深緑の空間は人里とは別世界の趣だった。天上から耳を聾する勢いで降り注ぐセミの鳴き声は暴力的ですらあるのに奇妙に透きとおり、まったくの静寂の中に佇んでいるような気持ちにさせた。
そんな森厳な場所も涼宮さんの号令一下、戦場に早変わりする。嬉々として虫取り網をふりまわしている涼宮さんの虫カゴにはすでにセミがいっぱいで、その狭苦しそうな混雑ぶりには思わず同情を禁じ得ない。
朝比奈さんは奇妙な鳥の鳴き声のような悲鳴をときおり上げながら、それでも健気に網を握っている。長門さんは直立不動で木陰に立ち、たまたま近くに飛んできたセミだけを選択的に瞬時に捕獲するという高等技術を見せている。木に止まっているやつを捕まえるほうがずっと簡単だと思うのだが。
そして彼はといえば、たいしてやる気があるとも見えない態度でだらだらと時間をつぶしている。そのわりには虫カゴの中にすでにセミが数匹入っているのは、まったく何もしないでいると、涼宮さんの鋭いチェックが入ってまた叱責の憂き目にあってしまうからだろう。
この分ではセミ採り大会の勝者は涼宮さんにほぼ決定だ。SOS団団長の座は一日たりとも他者の手に委ねられはしないだろう。
「古泉くんどうしたの、疲れちゃった?」
そのとき涼宮さんのチェックが入ったのは彼ではなく僕のほうだった。少し意外だったが、なにしろ僕の虫カゴには今現在一匹のセミも入ってはいない。見とがめられるのも無理はないところだった。
僕はすかさずそつのない笑みを浮かべてみせた。
「そんなことはありませんよ。僕はまず周囲の調査から入っていたのです。どの種類の木のどんな高度に多くセミが生息しているのかをね。まずは索敵、それから各個撃破ですよ」
「さすがは古泉くんね、頭脳派だわ」
涼宮さんは感心した様子でうなずいた。彼女のこの素直さは美徳だ。
しかしこの説明で納得するのは彼女くらいのものだろう。実際少し離れた場所から、彼が何かまずいものでも食べた直後のような顔でこちらを見ていた。
彼の言いたいことはわかる。
だけど僕は今、彼にそれを言わせるわけにはいかない。
疑惑を払拭するためにも僕は、それからしばらく最小限の労力でセミを確保することに尽力した。セミ採りをするのはもしかしたら人生初かもしれなかったが、まるで身体が覚えているかのように簡単だった。
そうしながらも彼の視線が僕のあとをついてくるのに気づいていた。彼には心配をかけているのかもしれない。しかし僕にはどうしようもない。これは絶対に必要な措置だ。
昨日一晩考え抜いて、もう彼のそばには近寄らないようにしようと、ましてやふたりきりなどには決してなってはならないと心を決めていた。
僕はおかしい。明らかにおかしい。おかしな僕は何をしでかすかわからない。だからそうなる前に自衛手段を講じるのだ。
なんて胸が悪くなるほど健全で賢明な理性的判断だろう。
しかしその一方で僕の脳裏にはまったく健全などではない妄想の類が巣食っていた。
ああそうだ、この木の陰で彼とキスをした。その手を引いてほかの誰の目も届かない場所まで行って、またキスをして、どうにも我慢できなくなって、少しだけとささやきながら僕たちは――
ありえない。それは絶対にありえない空想であるはずなのに、生々しい肌ざわりとリアリティとを持っていた。
彼に近づくまでもなかった。ありとあらゆる場所でふと立ち上ってくる記憶、既視感、幻、白昼夢、なんと呼ぶのが正しいのかわからないそれらのビジョンは僕をひどく苦しめた。
僕は自分が怖かった。こんな恐怖は十二のときに、突如ふしぎな力が宿って以来のことかもしれなかった。
あのとき僕は真剣に自分は気が狂ってしまったのだと思い、自ら死ぬことすら考えたのだ。
十二の子供がだ。それはどれだけ深い絶望だっただろう。
この世界には僕と同じ歳の女の子の姿をした「神」がいて、その神が望んだから僕には特別な力が与えられることになった。だから僕は閉鎖空間に入り、神の不満の表出である神人を倒さなければならない。僕が望んだわけでもないのに僕に拒否権はなく、またその選択自体におそらく意味はなく、完全にランダムなものであったに違いない。
僕は神に選ばれたことを誇ることすらできはしない。
ほどなく機関から派遣された人間が僕の前に現れて、とりあえず僕は自分の気が狂ったわけではなかったのだと知り、命を断つことばかりは思いとどまった。しかしそれは僕の絶望が消えたことを意味しない。
僕はずっと絶望しつづけていたのだ、あの日から。自分の運命が自分の意志ではどうにも変えられないことに絶望し、それまで漠然と信じていた自分自身の実在が、実に不安定で脆い基盤の上にしか存在しないことに絶望した。
世界はあるとき突然神の手によって創造されたのかもしれない。僕は本気でそう信じていたし、今もそれは変わらない。
自分自身なんて不確かなものだ。どうとでも簡単に作り替えられてしまう。
そう思いながらも僕は、まだ心の底で少しは期待していたのかもしれない。自分の自我に、理性に、想いに、欲望の方向に。
自分をコントロールできないという恐怖は僕にとっては何にも増して強かった。ありえない記憶、あってはならないデジャヴ。そうしたものはすべて僕の精神の正常さを否定した。
僕はきっと気が狂っている。
そう信じているのに、三年前と異なっているのは、だからといってこの僕が自ら死を選ぼうとはしないことだった。
僕はもはやそれほどの純粋さを失ってしまった。妥協を覚え、怠惰を知った。僕の精神は欲望で汚れている。自らの異常さを露呈させるものでしかない誤った幻想に、僕は心のどこかで惹きつけられている。
どうしても目が離せない。
それはおそらく僕が本心から願っているできごとだからだ。
連日の行事にさすがに時間の余裕がなかったのか、この日は朝比奈さんお手製のお弁当の用意はなかった。僕たちはみんな山へ登る前にコンビニで思い思いの昼食を買っていた。涼宮さんが持参のレジャーシートを広げると、全員がその広くもない四角の上に寄り集まって、にぎやかな昼食会が催された。
食べるものも場所も本当はなんだってよかったのだろう。僕たちがみな揃っていること、本心からともにいられることを楽しんでいること、そちらのほうがずっと重要だった。
僕にしてもそれが楽しくないわけではなかった。奇妙な幻が見え始めてから、どうしてだろうか、日々はひどくはかなく、移ろいやすいものに思われていた。
午後いっぱいをまたセミ採りに費やして、最終的にはいちいち数えるまでもなく優勝者は涼宮さんだと思われたが、当の本人は自分の言い出したことなど忘れた顔で、まるで順位にはこだわらなかった。
あげくの果てに彼女は一日かけて捕まえたセミをそのまま逃がしてやることにした。しかしこれは正しい選択である。こんなに大量に捕まえたセミを家まで持って帰ったところで、そのまま死なせてしまうことしか僕にはできない。
何年も地中にいて、ようやくこうして地上に出てこられたのだから、短い寿命くらいはまっとうさせてやりたいものだ。
「ほら! 山に帰りなさい!」
涼宮さんが大きく虫カゴをふり動かすと、中にぎゅうぎゅう詰めになっていたセミたちは、いっせいにほうほうの態で逃げ出した。彼が同じ動作をするのを横目で見ながら、僕もまたそれにならった。
夕焼け空に無数のセミが黒いしみとなって飛んでいく。
それはどこか物悲しい光景だった。失おうと意図して失ったものであるのに、胸の底にぽっかり穴が空いた気がした。セミなんかまたいくらでも捕まえればいい。明日だって、来年だって、夏は何度でも巡ってくるだろう。
しかし今この瞬間は、このとき一度だけであるはずだ。
気がつくと彼がひどく近いところに立っていた。掲げていた虫カゴを降ろした僕の手は、不用意に彼のそれとふれあった。
彼ははっとした様子で僕を見て、ほとんど反射的に身を引いた。
どこかおかしな態度だった。いくら僕が日頃彼に近づきすぎて、くりかえし警告をくらっているからといって、こんなにまで敏感に反応されるいわれはない。
それとも彼にはわかっているのだろうか。僕が狂ってしまっていることが。それだからこんなふうに警戒するのだろうか。
だけど彼は正しい。彼はもっと僕に注意しなければならない。
だって今のこの僕は、彼にとって非常に危険な存在なのだから。
> 08/20
[20070819]