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終わらない夏の終わりに


八月二十日

 どれだけだめだと思っても、気がつくと彼を見つめてしまっている。
 そんな自分を隠すには、被り物はちょうどよかった。
 その日の涼宮さん提案のイベントは、スーパーマーケットでのアルバイトと決定された。僕たちは朝の早いうちから集められ、それぞれに種類の違うカエルの着ぐるみを手渡された。今日は地元のスーパーの創業記念日で、店頭でそのデモンストレーションとして、子供たちに風船を配るのだという。
 正直言って真夏の着ぐるみは非常に暑く、体力を著しく消耗したが、精神的な平穏が得られる分だけ僕にとってはかなりましだった。
 幸いなことに今日はあまり妙な既視感に襲われることもなかった。ときおり子供に風船を渡すときに、この子の顔にはなんだか見覚えがあると思うくらいで。
 バイトは昼頃には終わり、みんなでスーパー側が用意してくれたお弁当を食べると、珍しくも早い時間に解散となった。
 さしもの涼宮さんも少しは疲れてきたということなのかもしれない。
 ともかく、ふいの自由時間を得た僕は、いや僕たちは――

 いったん別れて自宅に戻ったふりをして、あとから僕のアパートで落ちあった。

 ――なんてことはもちろんなく、僕はひとりで家に帰った。
 ここのところは夜もまともに眠れていなかったから、このあたりで休息をとっておかなければならない。真っ昼間からであろうと、眠れるのならそうするに越したことはない。いくら夢の中でまで、よこしまな幻が僕を捕えて離さなくてもだ。
 僕のアパートはおそらく目立たないことを最優先に考えて選択されている。新築でも豪勢でもないごくありふれた建物だ。二階建の集合住宅の一番手前の角部屋で、中に入ると1DKの平均的な間取りが待っている。
 そこは機関が用意した部屋だった。古泉一樹という人物像を崩さぬように慎重に配置された家具やカーテンに、僕の好みは一片たりとも顧慮されていない。
 部屋はそこそこシンプルに、センスよくまとめられていたから見るのも嫌だというのではなかったが、そろそろ四ヶ月ほども住んでいるというのに、まるで自分の部屋のようには思えない。
 一度散らかし放題に散らかしてみたことがあったが、高校へ行っているあいだに機関に勝手に片づけられてしまい、それ以降はそれなりに清潔さを保つように心がけている。
 すべては突然涼宮さんが訪ねてきた場合に対応可能なようにというわけだ。
 対涼宮さん用のマニュアルはしっかりと用意されているのに、この部屋にたとえば「彼」がひとりで訪れた場合のマニュアルなどは存在しない。
 もっともそんな可能性など、なきに等しいわけなのだが。
 僕は玄関の鍵をかけると、重い足をひきずり奥の部屋まで行って、ベッドに正面から倒れ込んだ。
 部屋は灼熱地獄になっていたから、リモコンに手をのばしてすかさずエアコンのスイッチを入れた。そしてポケットから携帯電話を取り出して、左手に握った。
 これで大丈夫。
 機関からの連絡も彼からの電話も(あるわけない)、みんなこの小さな機械が仲立ちしてくれる。これを掴んでいさえすれば僕は外界とつながっていられる。
 この息苦しいひとりきりの部屋の中にいてさえも。
 そのまますうと意識が遠ざかった。久しぶりに僕は熟睡したのに違いない。それだから、あまり聞き覚えのない着信音が耳もとで鳴ったときにはかなり驚いた。
 反射的に上体を起こしたが、部屋の中は真っ暗だった。とうに日が沈んでいるのだ。早くても八時はすぎているだろう。窓からさしこむ街灯の明かりだけでは心もとなく、僕は手をのばして部屋の明かりをつけた。
 瞬間まぶしさに目がくらんだ。視界のきかない状況の中、手探りで僕は電話をとった。
「……はい、古泉です」
 最初、そこから聞こえてきた声が誰のものなのかわからなかった。電話を通してそれを聞くのはそういえば初めてのことだった。着信音に覚えがなかったのも道理だ。
 朝比奈さんだった。
 要領を得ない嘆きをくりかえす彼女をまだ半分ぼんやりとした頭でなだめ、とりあえず僕は駅前の広場で彼女と会う約束をした。
 その通話を切ったとたんに強い既視感を覚えた。
 僕はこのあと起こることを知っている。そうだ、知っている。
 冷え冷えとした何かが腹の底から昇ってくるのを感じた。それは僕の理性を呼び覚ます。冷たい活力をくれる。
 僕の身にばかりではない、何かとんでもない異常が起こっているのだと、このときはじめて理解した。

 朝比奈さんから話を聞き出し、長門さんを電話で呼び出し、つづいて彼に連絡をして、四人が夜の駅前広場に揃うまでには、それから一時間ばかりが必要だった。
 最後に現れた彼は憮然とした面持ちだったが無理もない。彼は蚊帳の外に置かれた状態で、しかも時刻はすでに日付が変わる寸前だ。しかし蚊帳の外という点に関しては僕にしたところで一時間前までは同じだった。
 最初からすべてを把握していたのは、情報統合思念体の申し子、長門さんひとりであったのだ。
「我々は同じ時間を延々とループしているのです」
 そう彼に説明をするのはなぜか僕の役割だった。我ながらこういうときには口がなめらかに回る。ほんのしばらく前に朝比奈さんや長門さんから聞き知った情報を、整理し、まとめ、わかりやすいように噛み砕いて彼に話す。
 朝比奈さんは未来と連絡がとれない。それはこの世界に未来がないからだ。世界は八月十七日から三十一日のあいだを何度もくりかえしている。
「僕たちは終わりなき夏休みのまっただ中にいるわけですよ」
 僕は微笑みながらその言葉を口にした。彼はまだ信じ難いという顔をしている。確かに荒唐無稽な話だ。しかし僕には最初からこの話を疑う気持ちはなかった。朝比奈さんと長門さんを信用するしないという問題ではない。この説明はここ数日の僕の異常をきれいに説明してくれた。僕はひどく納得し、すべてが腑に落ちて、それどころではないのにどうにも晴れ晴れとした気持ちになってしまっていた。
 時間は二週間分だけ切り取られ、延々とその期間をループしている。時間は三十一日の二十四時にリセットされて、十七日に戻ってくる。その際記憶もリセットされる。それまでの二週間はなかったことになる。
 そんなことをしたのは涼宮さんだ。当然、それ以外の犯人など考えられない。
「なんでおまえはそんなに楽しそうなんだ」
 ふいに彼が眉をひそめながら尋ねた。
「ここしばらく僕を悩ませていた違和感の元が明らかになったものでね」
 そうだ、僕は喝采したいくらいだった。てっきり僕の頭がおかしくなってしまったのだと思っていたものが、そうではないとわかったのだ。
「あなたもそうだったのでしょうが、市民プールの日から今日まで、不定期に強烈な既視感がありました。今思えば、それは前回以前のループで経験した記憶の残滓――としか言いようがないですね――だったのだとわかります」
 数々の悩ましい白昼夢に似た体験、それらはすべてかつて実際に起こったことなのだとしたら。僕はまったくの正常だったのだとしたら。
 そこにはまた別種の問題が発生することに、僕にしても気づいていないわけではなかったが、今はそんなことよりも、事実を確認するほうが重要だった。
「それで、何回くらい僕たちは同じ二週間をリプレイしているのですか?」
 尋ねると、長門さんはまったく表情を動かさずに答えた。
「今回が、一万五千四百……」
 まったく気の遠くなるような数字だった。
 涼宮さんは僕たち以上に完璧な記憶抹消を受けているのだろう。そうでなければこれほどの回数のくりかえしに耐えられるとは思えない。彼女は自分が引き起こしているこの事態にまったく気づいていない。
 神とはそうした無責任なものだ。
 唯一これらのループを完全に記憶していた長門さんは、人間とは異なる精神構造をしている。それだからこそ耐えられたのだと言えるだろうが、そんな彼女であってもいささかうんざりした風情であるのは、非常に理に適ったことと思える。
「なんでハルヒはこんなことをやっているんだ?」
 彼は僕に向かって尋ねた。こういうときは僕に聞けばいいとでも思っているのだろうか。あいにく僕にも推測することしかできないのだが。
「……涼宮さんは夏休みを終わらせたくないんでしょう。彼女の識閾下がそう思っているのですよ。だから終わらないわけです」
 僕は考え考え言葉を口にした。
 彼女は夏休みにやり残したことがあると感じているのだ。それをやり遂げるまでは、このループは終わらない。きっとそういうことだ。
「いったい何をすれば、あいつは満足なんだ」
「さあ、それは僕には。長門さんはわかりますか?」
「わからない」
 そんな実も蓋もないやりとりがあったあと、彼は急に思いついたような様子で尋ねた。
「俺たちがこのことに気づいたのは何回目だ」
 長門さんの返答はまたもやため息の出るようなものだった。八千七百数十回。最近になるほど発見の確率は高まっていると言われても、少しも喜ぶことはできない。過去のシークエンスにおいて、僕たちは陥った状況に気づきながらも、ついに正しい時間の流れに復帰することはできなかったのだ。
 重い悩みから解放された反動で陥っていた躁状態からようやく醒めて、僕は真剣に事態を考え始めた。このループを抜け出す方法をなんとかして見つけなければならない。
 ただその前に、ひとつ明らかにしておきたいことがある。
 僕は無言で彼を見つめた。彼はその視線に気づいて顔を上げた。僕は今、どんな種類の微笑も浮かべてはいない。真摯に、視線の中にあらゆる問いかけをこめて彼を見ている。彼にはきっとその意味がわかる。必ずわかる。
 彼はしばらく平静を装った表情で僕と目を合わせていたが、やがて堪えかねたように目をそらした。
 それが答えだった。
 僕を最近悩ませていた、現実と二重写しになってときおり見える、頭が沸騰するような彼との経験の数々。キスや、もっと口に出すのがはばかられる様々なできごとが、みんな過去に実際起きたことだったとしたら。
 ひとりでできることではないのだから、それは僕だけでなく、彼にも感じられていなければおかしい。一方的に僕ひとりが記憶しているなんてことは理論的に考えてありそうにない。
 目をそらしたのは、彼がそれを認めたということだった。
 彼は覚えている。
 僕は冷たく心の中でくりかえした。
 彼は覚えている。

> 08/21

[20070820]