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終わらない夏の終わりに


八月二十一日

 ごくあたりまえの前日のつづきのように、また一日がはじまった。一万五千四百何十何回目かの八月二十一日だった。
 昨晩の結論の出ない話し合いは長引いて、ようやく家に帰ることができたのはひどく遅い時間だったが、幸いなことに今日の集合は夕暮れ時で、長門さんの住むマンションの屋上で天体観測をするのだという。それまでにはずいぶん時間があったから、僕はゆっくり昼まで眠り、なかば夢うつつに様々なことを考えることができた。
 様々に憂鬱なことなどを。
 ひとつ。彼と僕とは過去のシークエンスにおいて道を踏み外したことがある。それも、あれだけ執拗に記憶の残滓があるのだから、一度や二度のことではないだろう。その事実はそれだけで僕の頭から冷静さを奪う。
 何がどうしてそんなことになったのか。このいまだに何もはじまってさえいないシークエンスに属する僕には想像もつかない。
 そんなことより問題なのは、彼が僕を拒まなかったらしいということだ。
 なぜ。素直に喜ぶより先に、僕は途方に暮れずにいられない。
 彼は流されたのだろうか。それとも僕を好きなのだろうか。ありえない。
 むしろ嫌われそうな要因ならいくつでもある。うさんくさい機関に所属して、いまひとつ完全に仲間とも言い切れない微妙な立場を守り、うさんくさい微笑で常に彼をはぐらかす。それが僕だ。
 彼に好かれようなんて望んではいけない。期待もしてはいけない。
 だってほら。
 もうひとつ、忘れてはならないことがある。このシークエンスにおいて、彼は僕同様に過去の幻影を見ているはずなのに、あえてそれを黙殺することを選んだ。見て見ないふりをした。
 それは現在の彼にとって、僕とのそうした関係が、決して望ましいものではないということだ。
 僕はじっとりと汗を浮かべ、ベッドに深く沈み込む。どれだけエアコンをかけても昼間の熱気を完全に追い出すことはできない。どこか近くで蝉が断末魔の叫びを上げている。僕は自分が眠っているのか起きているのかよくわからない。
 目をそらしてはいけない。
 何度もくりかえされた過去に何が起こっていようと関係ない。リセットされた時点でそれらはなかったことになり、どれだけしきりに意識の狭間に現れようと、現在に影響を及ぼすことはない。
 気づいてもいないふりをすればいい。彼みたいに。
 ずきりと胸が痛んだが、僕は努力してその感覚を意識から追い出した。そうだ、何も起こらないほうがいいのに決まっている。世界の安定を守るためには。
 そうに決まっている。

 夜になると、立派な望遠鏡一式を持って、僕は長門さんのマンションへ向かった。望遠鏡は機関に用意してもらったもので、僕の私物ではない。僕が子供の頃に持っていた望遠鏡はそういえばどうなっただろうか。まだ両親の手元にあるだろうか、とっくに捨てられてしまっただろうか。
 いくら夏でも午後八時にもなれば完全に日が落ちる。雲が出ている様子はなかったが、星はほとんど見えなかった。最初から狙いは惑星と定めている。ちょうど観測のしやすい位置に火星が昇っていることを、昼のうちに調べてあった。
「幼い頃の僕の趣味がこれだったんですよね。初めて木星の衛星を捉えたときは、けっこう感動しましたよ」
 彼が身近なところに立っていたから、ことさら手もとに意識を集中させた。幸いにして僕は自分の感情を隠すことには長けていた。微笑みまで浮かべて、ふだんとどこも変わらない様子で話しかけた。
 彼は返事をしなかった。さきほどこの屋上で顔を合わせたときから、いつもと変わらないそっけない態度だった。彼がこんなにポーカーフェイスが得意だとは知らなかった。
 彼の視線の行き先は僕以外の三人のもとへ等分に割りふられている。ひどく滅入っている様子の朝比奈さんと、まるで無表情に空を見上げている長門さん、それと。
 とても無邪気に望遠鏡を覗きこんでいる涼宮さんに。
 気がつくと彼は涼宮さんと火星人について愉快な議論を闘わせていた。僕はそれに口をはさまず、黙って見ている。彼と彼女はお似合いだと思う。彼女の尖った部分を彼の穏健さはうまく包み込み、なだめることができる。彼のほうでも彼女のブルドーザー並の牽引力に引き回されることを、辟易とした顔の一方で楽しんでいる。うまく釣り合いが取れている。
 このふたりがうまくカップルとしてまとまれば、この終わりの見えない八月も、新たな局面へ向けて踏み出すことができるのではないだろうか。
 いつのまにかフェンスにもたれて眠っていた朝比奈さんの隣に涼宮さんまで座り込み、一緒に寝息を立て始めた。警戒心というものがない。子供みたいだ。
 少し微笑ましい気持ちになる。しかし僕の心の大部分は悲しみや虚しさや、そんな種類の感情に占領されていて、あまりうまく笑顔を作ることができない。
「遊び疲れたんでしょう」
「俺たちより疲れているとは思い難いけどな」
 すぐに言葉が返った。僕はちらりと彼に視線を投げた。彼は僕を見ない。涼宮さんを見つめている。
「何がしたいんだろうな、こいつは。友達みんなで仲良く楽しく遊んでいるとか、そういうのか?」
 ため息まじりの声に、僕は空の遠くに視線を転じて答えた。
「おそらくは、そうでしょう」
 涼宮さんはこの夏休みに満足していない。彼女自身が気づかないでいる、彼女が望んでいる「何か」を僕たちは見つけ、実行しなければならない。そうでなければこの八月は永遠に終わらない。
「記憶がリセットされることを我々は感謝すべきでしょうね。でなければ、とっくに僕たちは精神に異常を来しているに違いないでしょうから」
 どうせならもっと完璧に消してくれればよかったのに。ほんのわずかな既視感ですら、僕の精神をこれほど歪める威力を持っている。
「……涼宮さんの望みが何かは知りませんが、試しにこうしてみてはどうです? 背後から突然抱きしめて、耳もとでアイラブユーとでもささやくんです」
 自虐的な気持ちに駆られてささやいた。彼が小さく息を呑む気配がした。なまぬるい風が吹いて僕の髪をゆらした。
「それを誰がするんだ」
「あなた以外の適役がいますかね」
「拒否権を発動するぜ。パス一だ」
「では、僕がやってみましょうか」
 その言葉でようやく彼は僕を見た。ああだけどこんな表情を見たかったのではなかった。怒りと憤慨とで歪み、ひどく傷つけられたというようにくちびるがふるえている。
 あなたは口では否定するようなことを言うけれど、本当は涼宮さんのことが好きなのではありませんか。だったらそんなに嫌がらずに愛の告白でもキスでもすぐにやってしまえばいい。前にもそうしたことはあるのでしょうに、何にそんなにこだわっているのですか。
 そう思ったことを、そのまま口に出すことはできなかった。
「ほんのライトなジョークですよ。僕では役者が不足しています。涼宮さんを余計に混乱させるだけでしょうね」
 僕の喉からは、ほとんど自動的に耳ざわりな笑い声がこぼれた。自分で聞いてもざらざらと荒んだ響きなのだから、それを彼はどう受けとめただろうか。彼は何も言わなかったからわからない。
 そうだ僕では役者が足りない。そしてそれ以上に、僕が背中から抱きしめて、アイラブユーとささやきたいのは涼宮さんではない。
 僕は想像する。彼の背中を抱きしめる。少しだけ背の低い彼の耳が目前に来る。黒い髪の中から覗いたそれはやわらかな曲線を描いていて、僕はそれに誘われる。ささやきかければぴくりとふるえるだろう。ではもし舌を這わせたら、歯を立てたら彼は?
 無意味だ。
 僕はそんなことをしない。彼はそんなことを僕にさせない。
 何か言いたげな目をして彼は僕を見ていたが、僕はもう彼に与える言葉を持たなかった。
 見上げた空には落下してきそうに大きく輝く月が出ていた。

> 08/22

[20070821]