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終わらない夏の終わりに


八月二十二日

 この日の行事はバッティングセンター行きに決まった。僕たちはいつもの場所に午後から集まり、涼宮さんを先頭に隊列を組んでそこへ向かった。
 僕はバッティングセンターなるものに行くのは多分これが初めてだ。しかし記憶がないだけで、すでに何千回となく経験していることなのだろう。そう思うと目新しさはすっかり減じて、たまらなく退屈な感覚だけが残る。記憶がなくてもこうなのだから、すべてを把握している長門さんの気持ちたるや想像もできない。
 それでも僕には黙って涼宮さんについていくことしかできない。微笑みは義務であり習慣でありもはや癖のようなものであって、僕の内心に関わらず顔に貼りついて離れない。
 それに笑っているほうがずっと気が楽だった。抱えきれない苦悩や葛藤を表に出しても、なんのいいこともない。
 彼に気取られてはならない。
 肩を並べて歩いた路上でも、バッティングセンターに入ってからも、僕はよからぬ幻影に囚われてばかりいた。自分でもどうしようもない。既視感は強く鮮明で、ときおりどちらが現実なのかわからなくなるほどだった。
 汗ばむ彼の手を握った。ふたりして重苦しく黙り込んだ。人目を逃れられる場所なんて男子トイレの中くらいしか思いつかず、かといってまだそこまで追いこまれてもいなかったから、夜まで待とうと目だけで合図をして、それがすんなり通じることにじわりと幸福を感じ、そっとかすめるようなキスだけをした。
 ――そんなことがいつだかの過去のシークエンスに存在していただなんて、なんとも信じ難い気がする。じゃあなぜ今の僕たちはこんなふうに互いに目をそらして、ほんの少しも肌がふれあわないように気をつけて、言葉のひとつひとつを慎重に選ばないといけないのか。
 過去のその僕たちは暑さのあまりすべての規範が吹き飛んでしまっていたのに違いない。それかもう恋愛という名の精神病に頭がやられて、何もかもがどうでもよくなってしまっていたのだ。
 かつての幸せそうな僕たちよ呪われろ。消えうせろ。しかし僕が願うまでもなく、彼らはもはや時間流のどこにも存在しない。亡霊だ。ならばおとなしく墓に入っていてほしい。お盆もすぎたこんな頃に出てきて執拗に僕を苦しめるのをやめてほしい。
 彼は。
 彼は、何を考えているのか知れないが、ピッチングマシンから発射されるボールを一心不乱に打ち返している。涼宮さんほどの豪腕ではないが、以前に野球大会で四番を務めたのはあながち間違った人選ではなかったのだと思えるほどには打っている。
「キョン、あんた意外にやるじゃないの!」
 隣のケージに入っている涼宮さんも心なしか嬉しそうだ。相変わらず元気のない朝比奈さんは、さきほど一度、バントの特訓だといって強引にバッターボックスに立たされたものの、やはりろくにバットを振ることはできず、かえって危険だからというので早々に見学に回された。長門さんはといえば、正確無比のバッティングですべてのボールをホームランに導いている。そのでたらめぶりには涼宮さんでさえ開いた口がふさがらないでいた。
 僕は、何度か促されるままにバットを振ったが、残した成績は決して好調とは言い難く、最低限涼宮さんの勘気をこうむらない程度に参加したあとは、ゆっくり後方で眺めさせてもらうことにした。
 見学組は僕と朝比奈さんだけだったから、自動的にフェンスの陰に並んで立った。周囲はバットとボールの立てる音やピッチングマシンの機械音、さらには涼宮さんのいきのいい掛け声までもが加わって、かなりの騒音に満ちていた。そのため後方にいる僕たちにはいくらでも秘密の話ができた。
「解決策は何も思い当たりませんか」
 話しかけると朝比奈さんは、潤んだ目で僕を見上げた。こくんとただうなずくさまは、とても年上のものには見えない。彼が庇護欲をそそられるのも道理だ。
「古泉くんの……あの、機関の方々は何かご存知ではありませんでしたか」
「この事態に気づいてもいないようですよ」
 僕は薄く微笑んだ。それとなく匂わせてみたものの、機関の上層部の反応は鈍いものだった。彼らは何も知らない。だとしたらこちらからわざわざ知らせてやる義理もなかった。
「だいたい長門さんにすらどうにもできないものを、あくまでごくありふれた人間の能力しか持たない我々に解決できるとは思えません」
 僕のほかに十人ほどが持ついわゆる超能力というものは、ありふれた人間の能力ではないが、閉鎖空間でしか役に立たないのだから、この際考慮の必要はない。
「だったら、あたしたちはずっと……このまま?」
 朝比奈さんの声はふるえていた。未来人である彼女には本来属すべき時間がある。帰るべき故郷がある。そこから引き離されて、こんな場所に永遠に閉じ込められているのは、彼女にとっては悲劇でしかないのだろう。
「この閉塞的な世界を抜け出すことができるとすれば、それは組織や特殊な能力や技術に頼ってのことではないでしょうね。原因はきっとたわいのないことなのです。涼宮さんが何を願っているのか、それを一番理解できるのは、ほかでもないここにいる我々でしょう。特殊な肩書きを抜きにした、単なるSOS団の一員としての我々です」
 朝比奈さんはじっと僕を見つめた。彼女とこれまで、こんなふうにふたりきりで話したことなどなかったことに、ふいに僕は気がついた。必ずしも敵対しているわけではないが、かといって決して協力しあっているとも言えない組織に所属する者同士、彼女と僕とのあいだには、目に見えない一線があった。
 それを言うなら長門さんと僕のあいだにも同じような線がある。人間と、そのふりをしている、そうではない者と。かろうじて意思の疎通は成り立ち、また共通の目的のために協力しあうことも可能だが、こちらの隔たりはより大きい。
 思えば僕たちSOS団団員たちの横のつながりは希薄なものだ。涼宮さんの強引なまでの統率力があってさえ、彼のこまやかな気配りと、万人に隔てなく与えられる慈愛のようなものがなければ、僕たちは簡単にばらばらになってしまっただろう。本人に自覚はきっとないのだろうが、SOS団を存続させているのはまさに彼の力によるものであると言っていい。
 涼宮さんの「鍵」であるというばかりでなく、すべての力場の中心にあるのはいつも彼だ。
「僕は、『彼』こそがその欠けている何かを見つけてくれるのではないかと期待しているのですが、すでにこの八月が一万五千回以上もくりかえされているというのなら、彼にばかり頼っていてはいけないのでしょう。僕たちにも何かできることがあるのかもしれません。どんなことが契機にならないとも言い切れないのですから」
 神妙な顔つきで朝比奈さんは僕の話を聞いている。僕としては何も特別なことを話したつもりはなかったが、どこかが彼女の琴線にふれたらしい。
「そうですよね」
 彼女は決意を秘めた目をしてうなずくと、ぎゅっと僕の手を握った。
「あたし、がんばります!」
 何をどうがんばるつもりなのかは知らないが、とりあえずまあ前向きになってくれたのはいいことだ。あんまり彼女が落ち込んでいると、彼が心配してしまう。
 僕がそう考えて、彼女にやさしく微笑みかけたときだった。
 ふいに。本当にふいに、シャツの裾のあたりを掴まれて、強い力で背後に引かれた。
「ちょっと来い」
 低められたささやき声は彼のものだった。驚いてふりかえると、そこには確かに彼の涼しげな黒い短髪があり、見慣れた肩から腕へとつながる曲線があり、怒ったようにひそめられた眉と引き結ばれたくちびるがあった。
 怒っている。何にだ?
「あ、はい」
 ぐいぐいと引っ張る力に逆らおうとは思いもよらずに、僕はおとなしく彼についていった。きょとんとしている朝比奈さんに軽く手をふった。涼宮さんと長門さんはまだケージの中にいて、情け容赦なく長打を放っていた。彼女たちの体力は底なしだ。
 彼につれていかれたのは、「従業員用立ち入り禁止」と書かれた衝立のある廊下の先を曲がったところで、ほかに人気がないのはいいが、いくらか薄暗い。
「こんなところ見つかったら叱られますよ」
 彼がどういうつもりなのかわからず、からかう口調で言ってみたが、本当は誰にも見とがめられたりしないだろうとわかっていた。もううんざりするほど経験した既視感が、このときも一瞬訪れていた。
 ここで、彼とキスをしたことがある。
 しかしそれは今ではない。
「なんのお話でしょうか。僕が朝比奈さんと話していたのが気に入りませんでしたか? あなたも意外に嫉妬深い……」
 最後まで言えなかった。急にのびてきた彼の腕が、僕の胸ぐらを掴んだからだった。
「お前は俺が好きなんじゃなかったのか」
 至近距離から強い目線で、強い声で、確かに彼はそう言った。
 とっさに意味が把握できなかった。日に焼けた彼の肌には大粒の汗がたくさん浮いていて、運動量の多さと暑さのためか、頬もうっすらと紅潮している。それがみるみるうちに広がって、耳の辺りまで真っ赤になる。
 温度の高さを予感させる、思わずふれたくなるような色だ。
「あなたは、もしかして……」
 その先の声ものばそうとした手も、どんと彼に突き放されて、中途で空に浮くしかなかった。彼は逃げた。すごい勢いで走り去った。僕は茫然として、ひとり廊下に取り残された。
 もしかして、彼が嫉妬したのは僕にではなく、朝比奈さんにだった?
 めまいに似た感覚をおぼえて、ひんやりとした廊下の壁に背中を預けた。額が熱い。いや、頬も。急に熱でも出てきたみたいに。
 そんなことがありうるだろうか。彼が僕のことを好きだなんて、そんなことが。
 ありえない。理由がまったく思い当たらない。それに彼はここ数日、何も気づいていないふりをして、僕を避けていたじゃないか。
 しかしそれは僕も同じことなのだった。僕だって彼に近寄らないようにした。過去のシークエンスのことなんかまったく覚えていないふりをして、現状を維持することに躍起になった。
 怖かったのだ。
 何かが起こってしまったらもう引き返せない。彼に拒絶されたら立ち直れない。だけど。ああ、だけど。
 僕は血の昇った頬を必死で押さえる。
 頭の中がめちゃくちゃで、うまく考えがまとまらない。

> 08/23

[20070822]