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終わらない夏の終わりに


八月二十三日

 自分たちで火をつけて遊ぶ小型の花火はすでに体験したが、この日はもっと大規模な、市の主催する花火大会があった。
 甲子園の優勝校がついに決定した本日、そんなことなど眼中にない我々SOS団は、夕暮れ時にいつもの場所に集合した。
 そういえば一万五千数百回も同じ夏をくりかえしているのだから、そのたびに優勝校も違っているのではなかろうか。常識では考えられない回数の対決を経て、なかでも最多の優勝回数を誇る高校こそが、おそらくは真の実力を持っていると言えるのだろう。
 しかし現実は一期一会で二度はない。実力があっても偶然や運のあるなしで結果は大きく変わってしまう。もしもと考えることは可能だが、数多くある可能性のうちのどれが最有力なのかを普通は知ることはできない。
 僕と彼とは過去のシークエンスにおいて、何度ただならぬ関係に陥ったのだろうか。
 長門さんに尋ねてみればわかることかもしれなかったが、僕はあえてそうすることを避けた。答えが多くても少なくても、僕の胸は痛むだろうとわかっていた。
 どちらにせよ、最終的に未来へつながるのはただ一度きりだ。それがどのようなものになるのか、現時点では予測がつかない。今のこのシークエンスが確定されるとは限らない。
 確定させるよう、努力はしている。
 といっても僕にできることは、せいぜい涼宮さんの希望を精一杯叶えてやることくらいなのだったが。
 この日も女性たち三人は盆踊りのときと同じ浴衣姿で、彼女たちが佇んでいるだけで空気が華やいで見えた。
 僕と彼とは相変わらずの普段着で、とりたてて見るべきものはないが、僕は彼のラフな私服姿も気に入っている。年相応で、派手ではないが目にやさしい。
「じろじろ見てんなよ」
 彼はそんなつれない言い方をしてそっぽを向いてしまったけれど、すっきりとした短髪から覗いている耳がほんの少し赤らんでいた。
 そんな態度を取られたら僕は困ってしまう。
 ひどく困ってしまう。
 ぞろぞろとつれだって海辺へ向かった。打ち上げ花火はできるだけ真下で見るのがきれいだというが、涼宮さんがそれにこだわらないでくれたのは幸いだった。いい場所を確保しようと思ったら、何時間も前からの席取りが必要だっただろう。
 からんからんと下駄を鳴らして、先頭を歩く涼宮さんのうしろを全員でついていく。どんな殺人的な人ごみにも彼女は怯んだりしない。
 いくら携帯を持ち歩いているとはいえ、こんな中ではぐれたら、もう一度落ちあうのは難しい。だから涼宮さんは勢いよく朝比奈さんと手をつなぎ、朝比奈さんはびくびくしながら長門さんと手をつなぎ、長門さんは無表情に彼と手をつなぎ、彼は。
 ためらったあげく、「ああ、くそっ」と小さく悪態をついて、僕の手首のあたりをぎゅっと握った。
 僕の胸は急激に沸騰しそうに熱くなる。熱くなって苦しい。いつまでも下がる気配のない周囲の気温なんてはるかに凌駕している。
 あなたはそんな態度を僕に見せてどうするつもりなんですか。僕を煽っているのですか。それとも自制心を試しているのですか。もしも堪えきれずに何かが起こってしまったら、あなたは困るのではないのですか。それともあなたは、それを望んでいるのですか。
 そんなこと、尋ねられはしない。
 僕は彼の手に引かれるままにどこまでも歩いた。定位置を確保しないうちから花火は始まって、夜空を鮮やかに彩った。周囲の熱気が押し寄せてきて、人いきれでめまいがする。そうでなくてもあまり視界のきかないこの環境で、頼れるものは彼の強い腕の力、それだけだった。どこかしら美しい夢の中を歩いているような心地がした。
 何も見ないふりをして、何も気づかないふりをして、このまま何事もなく八月をすごして九月につづけること、それが僕たちのあいだの暗黙の取り決めなのだと思っていた。
 それなのに。
「これよこれ。こういうのが見たかったのよ!」
 ようやく足を止めた涼宮さんが歓声を上げる。確かにそれに見合うほど、空にはつづけざまに明るく輝く大輪の花が開いており、その打ち上がるときの火薬の轟音も半端なものではなかった。
 こうした本格的な花火を見るのは初めてなのだろう、朝比奈さんは心を奪われたようにひたむきな目を空へ向けている。いいかげん飽き飽きしているはずの長門さんさえ、無表情に天を見上げている。
 だけど僕は彼を見ていた。
 彼は僕を見ないようにしていたが、ぴりぴりとした緊張感がそのむきだしの首筋にただよっているのがわかった。
 花火は何時間もつづいていたが、僕たちはそれを最後まで見ることはせずに、周囲に出ている屋台をひやかし、お腹を膨らませた。芝生の上に座り込み、みんなでラムネを飲んだ。お酒が入らなかったのは、夏休みの初めに孤島での体験から学んだことが、いまだに生きていたからにほかならない。涼宮さんは律義に断酒の誓いを守っているようだった。
 ほんの数週間前のことにすぎないのに、それらの日々は僕にはひどく昔のように感じられる。実質は五百年ほどもの昔なのだと思えば当然のことなのかもしれなかったが。
 花火を満喫し、お腹もいっぱいになり、涼宮さんは大いに満足したようだった。明日は何をして遊ぼうかしらと、いくらか真剣に思い悩む様子を見せている。彼女が最初に僕たちに見せた計画書の大部分はもはや消化してしまっているので、そろそろ新たなプランを考案しなければならない時期なのだ。
「まあいいわ。明日になったら電話する。いつ呼び出されても大丈夫なように、ちゃんと時間はあけておくのよ!」
 行き当りばったりなところもある意味涼宮さんらしかった。僕たちはみんなそれに慣れていた。にこやかにまた明日と言って、駅前で別れた。
 それぞれの帰途へ着く寸前、長門さんの視線が少しだけ、いつもより長く僕の上にとどまったような気がした。彼女には僕がこれからすることが、すべてお見通しなのかもしれなかった。
 だけど僕にはもう、こうすることしかできない。
 夜の十時近くになっていたが、うだるような暑さはいまだに空気を重苦しく澱ませていた。しかし僕の喉がうまく空気を吸えないでいるのは気温のせいではないだろう。身体の動かし方を忘れてしまったみたいにぎくしゃくと僕は腕をのばした。
「すみません。もう、限界です」
 小さくささやき、こちらに背中を向けている彼の服の裾を掴んだ。彼はこのとき、逃げようと思えばいくらでも逃げることができただろう。僕の手の力は弱かった。しかしそれ以前に、家へと帰ろうとする彼の足取りはふしぎなくらいに重かったのではないか。何かを待っているかのように、立ち去りがたいという気配を背中にただよわせてはいなかったか。
 そんなことをずいぶんあとになってから思った。しかしこのときは、僕の頭の中は彼の反応を追いかけることにいっぱいで、正常な思考などはとうの昔に蒸発して消え去っていた。
 彼はゆっくりとふりむいた。僕の心臓はひどく大きな音を立てた。それからどくどくと激しく脈打ち始めた。だめだ、そんな表情は反則だ。押し殺しても押し殺しきれない熱情をはっきりと目に浮かべ、上気した頬で、彼は低くささやいた。
「俺もだ」
 その瞬間に、すべての理性は粉々になって吹き飛んだ。
 抱きしめた腕は、同じくらいの強さで抱きしめ返されたことに歓喜し、ふるえた。初めから舌をさしこむ深いキスをした。彼の口内は潤みきって熱く、僕をどろどろに蕩かせた。汗のにじんだ後頭部を手のひらで支えてむさぼると、彼は苦しげに眉根を寄せてもがいたが、それでも僕の腕から逃れようとはしなかった。むしろ痛いくらいに僕の首に腕をまわして、呼吸困難をものともせずに、舌を絡ませ合った。
 隙間なくふれあった体中が熱くて熱くて、背中や額に汗が伝うのを感じた。押しつけあった下半身が互いに硬くなっているのがわかった。頭の奥が鈍く脈打つ。見境なく興奮し、勝手に指先が彼の背中をたどり始める。
 そのときだった。
 ふいに彼の腕は明らかな意志を持って僕の顔を遠ざけた。あられもなく荒い息をつきながら、赤い目もとをして彼は宣言した。
「おまえんちに、行く」
 実に良識のある判断だった。偶然人通りがなかったとはいえ、そこは路上で、誰に見られてもおかしくはない。どこでもいいからふたりきりになれる場所はといえば、僕の部屋が最適だろう。
「承知しました」
 うやうやしいくらいに僕は彼の手をとった。以前、突風のようにかすめた既視感の中に、同じような場面があった。僕は彼と手をつなぐ。指と指を絡め合わせて、皮膚だけでなくもっと深いところでつながっているみたいに体温を上げて、一秒でも早く彼と本当につながりたいと足を速めて。
 おぼろげな過去のイメージの中にいた僕たちよりも、今の僕たちはずっと気の遠くなるような熱風に煽られ、わめきだしたいような、高らかに笑いたいようなわけのわからない感情の嵐に翻弄されて、ひたすらに走った。
 ようやく部屋にたどりついたときは、僕は相当に鬼気迫る様相になっていただろう。汗だくで髪はふり乱れ、呼吸は整わずに声すら出せず、膝だってがくがくになりかけていた。
 しかし彼も似たようなものだったから、僕たちはお互いさまというものだった。
 おまけに互いの散々な姿を笑いあっている余裕もなかった。内側から扉に鍵をかけたとたんに彼の腕がのびてきて、強引に僕のくちびるを奪った。それだけで僕の脳内では重大な回路が数本ぷつぷつと切れて、もう何もかもがどうでもよくなった。
 まだ明かりもつけていない玄関の床に一緒になって転がり込むと、下になった彼は盛大に背中を打ちつけたらしく、「いてっ!」と叫んだ。すみませんとかごめんなさいとか思いながらも、僕の喉からそのときこぼれたのはかすかな笑い声で、しかもそこには色濃い情欲がにじんでいたから、僕はこれから口が裂けても自分のことを善人だとは言わないことにする。
 まさぐる彼のTシャツは肌になかば貼りついていて、その隙間に指を這わすと、驚くほどの熱をためこんでいる。しっとりとした背中や腹や臍のくぼみを指やてのひらや舌でなぞり、撫で上げると、指の先が丸い取っかかりにふれた。すでに硬くなりかけている。身じろぎもがく彼の身体を上から押さえつけ、のびあがって口に含んだ。彼の喉は小さくかすれた声を上げ、同時に全身が跳ねた。
 膝頭に感じる彼の下半身の熱は、ふれるまでもなく相当に限界に近づいている。焦らしたいわけではなかったが、僕の頭も飽和していて、同時にいくつものことができなかった。
「こ、いずみ……」
 どこか悔しそうな響きを帯びた彼の声が僕の名前を呼んだかと思うと、その手は僕のズボンのベルトにかかり、手探りでそれを外し始めた。それでようやく思い出して僕は靴を脱ぎ、彼のも脱がし、そして彼のジーンズを思い切りよく引き下げた。瞬間彼が息を呑んだ気配を心地よく僕は味わい、微笑みながら彼の性器に手をかけた。
「明かりをつけてもいいですか」
 僕がささやくと、彼は喉の奥で唸り声を上げた。
「見られたくありません?」
「見て楽しいようなもんはいっこもないぞ」
 そんなことありませんよ、僕は見たいです、あなたのどんな姿も、どんなところも。
 それでも彼の希望を聞き入れて、明かりはつけないことにした。そんなことより、ここが板張りの玄関先であることのほうが問題だった。僕はよくても彼の身体にそれは負担だろう。すでに背中や腰を何度も打ちつけて、ひそかに苦痛に顔をしかめている。
「奥へ」
 僕は残った自制心を総動員して彼の腕を取ると立ち上がった。もう普通に歩くことさえつらかった。
 部屋に入ると、昼間の熱気がこもったままになっていた。玄関よりも外よりもずっと暑い。彼をベッドに押しやると、窓からさしこむ街灯の淡い明かりを頼りに、エアコンのリモコンを操作した。気だるげな音を立てて機械が動き始める。それを確かめもせずに僕は再び彼の身体を押さえつけた。キスをした。何度も、何度も。口に、それからシャツを捲り上げた背中にも。
 彼の背中は傷ひとつなくのびやかで、暗闇に慣れた僕の目に、ほのかに浮かび上がって見えた。
 ふいにまた、既視感の一種にあたるのかもしれない感慨にとらわれた。
 僕はこの光景を見たことがある。どんなふうにふれれば、彼がどんな反応を返すのかを知っている。彼の形、彼の感じるところ、彼の達するときの顔さえ知っている。
 少なくともこのシークエンスにおいて、僕と彼がこうするのは正真正銘これが初めてのはずなのに、あるべき初々しさやぎこちなさ、未知の何かをおそるおそる切り拓いていくときの昂揚感というものは、きれいに拭い去られてしまっている。
 手順というものを新たに学ぶ必要がないという点においては恵まれていたが、それは同時に一度しか経験できない大切な時間の喪失を意味してもいた。
 悲しみが音もなく僕の胸には降り積もったが、それでも目先の欲望の強さに、ゆっくりものを考えている余裕なんかはほとんどなかった。
 エアコンの効きは遅く、浮いた汗は流れて彼の背中に滴った。ああ、とほとんど声にならない声が喉からもれた。深く彼の中に身体を沈める。彼の指が強くシーツを掴んでいる。僕はその上からやさしく手のひらを重ね、彼の背中にぴったりと胸を重ねる。
 ゆれる。ゆれて、頭の中はぐだぐだに煮溶けて、わけがわからなくなる。僕たちはこの感覚に慣れている。そのはずなのに、リアルに感じる快感はあまりに強く、またおそろしいほどの幸福感を含んでいて、いとも簡単に僕の理性を吹き飛ばしていった。

> 08/24

[20070823]