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終わらない夏の終わりに


八月二十四日

「あなた焼きすぎですよ」
 明るい朝の陽射しの中、僕は彼の日焼けした肩にそっとくちびるをすべらせた。彼の身じろぎ、皮膚の下の筋肉の動きに陶然とした。
「俺は普通だ。お前が白すぎなんだ」
 憮然と彼は言い返す。僕は小さく笑い声をこぼす。
「僕は焼けないんですよ。体質なんです。火傷したみたいになってしまう。朝比奈さんも同じなのでしょうね、どこへ行くにもUVケアは必須です。でもあなたの場合は」
 きれいな褐色になった彼の肌に僕はやわらかく歯を立てた。
「今はよくても、のちのち皮膚癌の遠因になりますから、やはり日焼けはほどほどにしておかないと」
「そんなことはハルヒに言ってやれ」
 我ながらおとなげないことに、彼の口から涼宮さんの名前が出たことが面白くなく思え、僕は背中から腕を回して、ゆるく勃ち上がりかけた彼の中心を握った。
 とたんに強く手の甲をつねられた。
「朝から盛るな」
 僕は笑った。つねられたところは少し痛かったが、そんなことよりも、彼とこんな親密な時間をすごしていることが信じ難く、圧倒的な幸福感に窒息しそうになっていた。
 確かにまだ早朝と呼べる時間だった。日は完全に昇っていたが、さしこむ光に午後の灼けつくような苛烈さはない。それでもすでに外の気温は三十度を超えているだろう。昨晩からエアコンはつけっぱなしで、室内ばかりはそれなりに冷えていた。薄いタオルケットにふたりでくるまっていても平気なくらいには。
 昨晩はふたりとも気を失うように眠ってしまったから、エアコンを停めるなんていう理性的な行動をとる暇がなかったのだ。
 しばらく前にそっぽを向いたきり、こちらを向かない彼のうしろ頭を僕は見つめる。僕が目を覚ましたときには、それは僕のほうを向いていた。薄くぼやけた視界の中に、一番に入ってきたのが彼の眠る顔だったときには、僕は正直、まだ夢を見ているのかと思った。
 ずいぶん幸せな夢だった。絶対に無理だと思っていた願いが叶った。彼が僕に応えてくれた。僕をほしがってくれた。
 夢ではなかった……のだろうか。
 おそるおそる手をのばし、短く切られた前髪にふれた。それから額に。閉じられた瞼に、そして鼻筋に。
 そこで彼は目を覚ましてしまい、ぼんやりと僕を見つめたあと、すごい勢いで背中を向けてしまったというわけだ。
 あなた恥ずかしいんですか。恥ずかしいんでしょう。なんていまさら。
「昨晩はあんなに情熱的だったじゃないですか」
 僕は彼の耳もとにくちびるを寄せてささやき、手の甲の痛みなんかものともせずに、ゆるゆると手の中のものをしごいた。
「よ、せって」
 彼はぎゅっと僕の腕を掴んで身体を跳ねさせたが、それ以上には抵抗をしてこない。本気で嫌がってはいないということだ。声だって甘い。少しかすれて、風邪を引いているときみたいだ。
 僕は彼の首筋に顔を埋める。彼のにおいがする。汗とそれ以外のもともとの彼の体臭がおそらく混ざりあっているのだろう。ひどく性的な、頭の芯をしびれさせる香りだと感じる。もっともそれを正直に口に出したら彼に殴られるのがオチだろう。実を言うと僕たちは昨晩からシャワーすら浴びておらず、決して清潔とは言い難い状態だ。体中がべたべたとするのは確かに不快だったが、それどころではなかったのだから仕方がない。
 それに彼の汚れだったら僕はどんなものでも厭わないと言えば、これもまたきっと彼に殴られてしまうのだろう。
 そんなやくたいもないことを考えながら、僕は彼の片方の肩を、ぐちゃぐちゃになったシーツに押さえつけた。ようやく見ることができた悩ましい彼の顔に微笑みかけてくちづける。最初は軽く、それから次第に深く。彼が小さく吐息めいたものをもらす。なんだかんだ言いつつ彼も乗り気だ。左腕が持ちあがり、指先が僕の髪に絡む。やわらかく梳くように撫で、僕の長い前髪をかき上げる。
 そのときだ。
 突然身近な場所から大きな音が鳴り響き、驚きのあまり僕の心臓は止まりそうになった。見下ろす彼の顔も同じように驚愕しきっている。しかし立ち直ったのは彼のほうがはるかに早かった。
「俺の携帯だ」
 彼は身を起こして慌てて腕をのばした。床に落ちていた彼のジーンズのポケットから、騒々しく鳴き喚いている電話を取り出す。僕は茫然とそれを見ている。
「はい」
 彼が受信ボタンを押したとたんに、僕のところまで相手の声が聞こえた。
『遅いじゃないのキョン、すぐに出なさいよ』
 涼宮さんだった。
 僕はぼんやりと彼と涼宮さんが会話をするのを聞いていた。思えば彼女が彼に電話をかけてくるのは当然のことで、今日の予定はいまだに確定しておらず、昨日のうちに、あとから連絡すると予告されていた。
 これから呼び出しがかかるのだろうか。すぐだと面倒だ。彼はまともに歩けるだろうか。何か嘘をついてでも休んだほうがいいのではないか。しかしそうすると涼宮さんは機嫌を損ねてしまうだろうか。それではせめてインドアでできる何かを……。
「はぁ? 今日はなし?」
 ぐるぐるさまよいだしていた僕の思考は、彼の声によって引き戻された。
『ごめん、急に親が一緒に食事に行こうって言い出しちゃって、まああたしもたまには家族サービスしなくっちゃね。ってことだから、悪いけど今日はみんなフリーってことにさせてちょうだい。かわりに明日は早朝集合よ。川で釣りをするの。いい?』
「いいも何も、もう決まったことなんだろうがそれは」
『そういうこと。じゃあまた明日ね。あたし、ほかのみんなにも電話しないといけないから、もう切るわね』
「ああ切れ切れ」
『何よその言い方、かわいくないんだから。じゃ!』
 そう言って涼宮さんからの通話は切れた。
「……そういえば今日は日曜でしたね」
 僕がぽつりとつぶやくと、彼は憮然とした面持ちでぼやいた。
「家族サービスってのは親が子供に対してするもんで、子供が親にじゃないだろうが」
「まあそうですけど」
 毎日忙しく遊びまわっている涼宮さんからすれば、親の休日の都合に合わせてやるのも立派に家族サービスなのだろう。夏休みだからといって、涼宮さんは決して暇ではないのだ。
「悪いが釣りの道具なんか持っちゃいないぞ」
「涼宮さんが何も言わないということは、借りられるのかもしれませんよ」
「何を釣る気なんだあいつは。UMAか。シーラカンスかネッシーでも釣り上げようってのか」
「さすがに川にネッシーはいないと思いますが」
 ぶつぶつつぶやきつづける彼の腰を、僕は意味ありげに手のひらで撫でた。
「ですがまあ、今日でなくてよかったではありませんか」
 彼はひどく嫌そうに僕を見た。ようやく今になって彼と僕が全裸で、至近距離で向き合っていることに気づいたという顔だった。
「もういい。俺は風呂に入る」
 彼は顔を隠すように手を当てて、鈍い動きでベッドから降りた。
「一緒に入りましょうか」
「あほか! すぐお前のところにも電話がかかってくるぞ」
 彼はずかずかとバスルームへと消えてしまう。一度も案内したことがなく、使い方の説明だってしていないのに、彼はまったく迷いもしない。
「シーツ替えておきますよ」
 背中に声をかけると、彼がわずかにうなずいたような気がした。
 僕はひとりきりになった部屋で、仰向けにもう一度ベッドに転がる。模様も何もない白い天井が視界を覆う。
 初めてだったのに、そんな気がしない。彼はこの部屋になじんでいる。彼の身体はすでに僕になじんでいる。
 少し、胸が痛い。
 待っているとやがて本当に涼宮さんから僕の携帯にも電話がかかってきたが、思ったよりもずいぶん遅い時間だった。朝比奈さんや長門さんと話し込んでいたのかもしれない。長門さんと長く話すことは僕にとっては至難の業だが、涼宮さんにとっては造作もない。そのあたりが度量の違いというものかもしれない。
 溌剌とした涼宮さんの声を聞きながら、僕はひそかに罪悪感に襲われていた。彼女の大切な人を横取りしてしまったことへの、それを隠さないといけないことへの罪悪感だ。だけど、ほんのわずかなあいだのことだから、どうか許してほしい。
 あと一週間もすれば、この幸福な時間は夢と消えて、時間は過去へと巻き戻るだろう。
 そうしなければならない。
「バスタオル借りたぞ」
 彼がバスルームから出てくる頃にはシーツも替え終わっていた。着替えは適当に僕の服を貸した。入れ違いに僕もシャワーを浴びて、短い時間で外に出ると、彼は真新しいシーツの上に座って、つまらなそうにテレビを見ていた。
「お腹すきましたか?」
「まだいい」
 隣に座った僕の、頭からかぶったバスタオルに手をのばし、彼はぐしゃぐしゃと濡れた髪をぬぐった。僕がいつもあまり丁寧に髪を拭かないことをよく知っている動作だった。
 僕はふいに胸が熱くなり、そっと彼にキスをした。彼は顔をしかめたが、何も言わない。その彼を僕は抱きしめた。ただ黙って。
 彼は僕の腕の中でおとなしくしていたが、やがてふと思い出したようにつぶやいた。
「なんかこう、全部に見覚えがある気がするな」
 僕の部屋の中の話だった。僕は苦く笑った。すべてに既視感がつきまとう、その善し悪しを彼も感じている。
「僕たちの本当の最初のときって、どんなだったんでしょうね」
 もう今となってはどうあがいても取り戻すことのできない、失われた時間の中の貴重な瞬間を僕は思わずにはいられない。どれほど胸がふるえただろうか。どんなにみっともなくても、情けなくても、僕はそのときを覚えていたかった。
 彼は何も答えなかった。おそらくは彼も覚えていないのだ。ただつきまとう多くの既視感から、こうすることがまるで必然のように感じているだけで。
「……なんでお前なんだろうな」
 ぽつりと彼がつぶやいた。
「なんで、とは?」
「お前でなくたって、いくらでも選択肢はあるだろう。時間がループしているだとか無茶な話を聞かされて、やけになってひと夏の思い出作りに青春を暴発させてみるんだったら、相手はそれこそ朝比奈さんでも長門でも……ハルヒだっていいはずだ。それがなんでか俺の頭に残ってる記憶のかけらはお前とのことばっかりで……正直言ってそっちのほうがよほど不自然だろうってのに、なんだって」
 僕の手のひらはふいに冷たい汗をかく。彼の言葉に腹を立てたというのではない。ただすっと頭が冷えて、覚悟が定まった。
「ここで僕は、それを言うなら僕のほうこそなんだってあなたなんかと、とでも言葉を返すべきなんでしょうね」
 本来だったら何かしらのきっかけがあって起こったはずの過程を、僕たちは省略してきてしまった。過去のデジャヴに背中を押されるようにして、ほとんど無我夢中で。
 流されただけだろうか? いや、そうではない。
「でも僕には言えません。ほかの誰かではだめだった。少なくとも僕には」
「……おい」
 僕の声に何か不穏な気配を感じたのか、彼は身をもぎ離そうとした。だけど僕はそれを許さずに、強い力で抱きしめた。
「あなたが好きです」
 するりと言葉は口からこぼれ出た。それは自分でもどうすることもできない真実だったから、胸の内にとどめておくほうがよほど難しかった。いまさら隠す必要はない。少なくとも今と、これから先の一週間だけは。
「古泉」
 彼の声が僕の名前を呼ぶ。いくらかうろたえた響きがある。
「おまえどうして」
 彼の手が頬にふれて、僕ははじめて自分が泣いていたことに気づいた。どうしてなんて僕に訊かれてもわからない。僕は何が悲しいのだろうか。なぜこんなに胸が痛むのだろうか。
 余計なことを口にする前にと、僕は彼のくちびるをふさいだ。そのままうしろに倒れ込む。決まりきっているようで、同時に何もかもが新しい手順で彼の身体をひらく。
 ほとんど有無を言わせず彼を抱く最中、彼の声がひっそりと、「俺だって好きだ」と告げた。僕にはもうそれだけでよかった。
 その日は結局一日中外に出ることをしなかった。朝食をとばして昼食にピザ、夜もピザ、うんざりしようが飽きがこようが、とにかくピザだった。
 怠惰に、それでいて熱心に、僕たちはセックスをした。それしかすることがなかったというのもあるが、ひどく心が逸って、彼にふれずにはいられなかった。
 だってこんなことは今しかできない。
 彼とこうなってしまった以上、このシークエンスを確定させることはできない。
 それは僕にとっては呼吸をするより自然な結論だった。

> 08/25

[20070824]