終わらない夏の終わりに
八月二十五日
早朝、と言った涼宮さんの電話は嘘ではなく、僕たちは朝の六時に駅前に集合させられた。やってきた涼宮さんは、人数分の釣り竿と、釣り餌のゴカイが大量にうごめくバケツを持って大荷物だった。聞けば釣り竿は親戚の伯父さんから借りたもので、ゴカイはちゃんと今朝お店に行って買ってきたものだという。こういうときの涼宮さんの行動力は本当に尊敬に値する。
場所はといえば、結構遠い県境の川だった。大会が始まるのは八時からだが、まずはその場所へと移動しなければならない。集合が早かったのは、そのための移動時間を見越してのことだ。
眠そうに目をしばたいている彼を僕はそっと見守った。昨晩彼が自宅へ帰っていったのは、かなり遅い時間になってからだった。つまりそれまで彼は僕の部屋で、まるで飽きることなく不純同性交遊にふけっていたわけで、その分の身体の負担は確実にまだ彼の中に残っているだろう。
ぱちんと空中で視線が合った。僕がやさしく微笑みかけると、彼は非常に腹立たしそうに目をすがめた。
まずは平常通り。少なくとも外から見たところは。
しかし内面は大きく変化している。彼も、僕も。
僕はひそかにため息をついた。この時間がループしていると知らされたときとはまた違う憂鬱が僕を支配していた。
これまでの僕はこのループを抜けだすために努力をしてきた。
これからは、その逆の目的のために行動しなければならない。
とはいえ特別なことは何もする必要はない。むしろ何もしなければしないほど、今回のシークエンスもこのまま闇に葬り去られる可能性が高い。八千回以上もの回数を、自覚がありながらただ手をこまねいて消し去られてきた僕たちだ。
あと一週間、この流れに身を任せていれば、涼宮さんがすべてを忘れさせてくれる。
願わくは今度こそ、その記憶の消去が完全なものであるように。
バスと電車を乗り継いで、川へと向かう。もっと山の奥の渓流なのかと思っていたら、河口にほど近い、潮の満ち引きを感じられる場所だった。
釣るのはハゼなのだという。正直言って僕は魚にはまったく詳しくない。おぼろげな既視感がなければ、きっと初めて見る魚だったことだろう。あまり大きくはなく、濃い褐色をしていて目立たない。食べられるのかどうかも僕にはわからない。
朝比奈さんは最初にゴカイを目にした瞬間に奇天烈な悲鳴を上げて遠くへ逃げ去り、以来、二度とバケツの一メートル圏内には近寄ろうともしない。そんな彼女に釣りをさせようというのがそもそも無理で、朝比奈さんは早々に後方補給部隊(定員一名)に任命された。
もともと部室で嬉々としてお茶汲みをしていることでもあるし、彼女はその役目を不満に思ったりはしないだろう。プールのときもそうだったが、今日も彼女は大きなバスケットを抱えていて、中にはきっと、彼を満面の笑みにさせるような手作りの料理が詰め込まれているのに違いない。
涼宮さんは会場に到着すると、飛び入り参加のエントリーをすませ、早速竿に餌をつけ始めている。彼はといえば、長門さんのそばへそっと身を寄せ、何事かを耳もとにささやいている。
これはあれだ。きっとあれだとピンと来た。
「おい、古泉」
長門さんとの話が終わると、彼は最後に僕のところへやってきた。
「野球大会のときみたいなズルはなしな。いくらハルヒが勝負に負けるのが嫌いだからって、ハゼ釣り大会ごときで世界を滅ぼしたりはせんだろう。ここは静観だ。むやみに張り切ってたくさん釣ろうなんてすんじゃねえぞ」
彼がこう言うことはわかっていたような気がした。それが既視感の一種なのか、それとも彼の性格をある程度理解した今だからこその推測なのか、どちらなのか僕には知れない。
「仰られるまでもなく」
僕はやわらかく微笑んだ。
「最初からそのつもりでしたよ。ハゼ釣り大会に参加したシークエンスが過去に何度あったのかはわかりませんが、そのうち一度も彼女は世界を消滅させてはいない。これはれっきとしたある種の安全保障ではありませんか」
「ん? まあ、そういうことになるのか?」
「そうですよ。釣れても釣れなくても、きっと大丈夫です。僕たちは今を楽しめばいいんですよ」
「そうか」
彼はどことなく腑に落ちないという顔をしながらうなずく。とりあえず彼の要求は通ったのだから問題はないはずだ。
「僕たちもやりましょう」
彼をうながし、一緒に準備を始めた。彼だって釣りは初めてのはずなのに、やけに餌をつける手際がいいのは、一万回以上もくりかえされた夏のおかげだろうか。
長門さんは無表情に、朝比奈さんは離れたところからこわごわ見守り、涼宮さんは底抜けに陽気な声を上げ、僕たちはそれから数時間にわたって釣りに嵩じることになった。
やってみるとこれは意外に面白いものだった。あいだに朝比奈さんお手製の豪華幕の内弁当昼食会をはさみ、午後までかかって糸を水中に垂らしつづけたが、驚くべきことに、一匹のハゼも釣れなかった。誰ひとりとしてだ。ほかのグループが百匹釣れたとか二百匹釣れたとか言っているのにこの数値とは、もしかしたら長門さんが細工でもしたのかもしれない。
この状況に激怒してもおかしくはなかった涼宮さんは、しかし竿をふりまわすこと自体に楽しさを見出しているらしく、始終上機嫌で、僕は胸を撫で下ろした。
「アレが出てきたりしてないよな?」
こそりと彼が僕にささやいた。アレとは神人のことだろう。
「ええ、大丈夫です。涼宮さんはこの夏休みが始まってから一度も閉鎖空間を発生させてはいませんよ」
「そりゃあよかった」
彼は少し離れたところでいまだに竿を手に奮闘している涼宮さんを眺めた。その目のやさしさが僕の胸にはこたえたが、あえてそれを指摘しようとは思わなかった。
「じゃああいつはこの夏に完全に満足しているってことか」
「そうなりますね」
「だったらなんで一万何千回だかもリセットなんかしてるんだあいつは」
「もしかしたら涼宮さんはこの夏休みが物足りないのではなく、あまりに楽しいがために、永遠にこの時間がつづけばいいと願っているのかもしれませんよ」
そうたわむれに口にしてから、僕は案外その可能性も否定はできないことに気づいた。何より僕自身がその考えにひどく惹きつけられた。
こんな時間が永遠につづくなら、時間のループから抜け出す必要はないんじゃないか。そうすればずっと彼といられる。彼と、ほかのSOS団のみんなと。世界の滅亡や機関からの指令について思い煩う必要もなく、老いることも死ぬこともなく、永遠に。
「もしそうならあほだなあいつも。そんなもんはただの停滞だ。いつまでたっても進歩ってものがないだろうが」
むぞうさに彼の口にした言葉は僕の幻想を打ち砕いた。僕は一瞬絶句した。
そう言ってしまえるのは彼が強いからだ。僕は弱い。簡単に楽な道へ逃げこんでしまいそうに弱い。
だけど僕は、そんな怯懦を許さない彼の強さが好きだった。
「……そうですね」
僕の口調には自然にもの憂いさみしさがにじんでいたのかもしれない。彼は怪訝な目をして僕を見上げた。
「なんかおまえ変だぞ、昨日から」
「そうですか?」
微笑みでごまかすのは得意だった。もうその種の嘘は、切り離すことのできない僕の半身となってしまっている。
「疲れているのでしょうか。昨日、一昨日と、がんばりすぎましたからね」
彼の腰から背中にかけてのラインを手のひらでたどった。彼は本気で怖気が走った顔をして、飛びすさって僕から離れた。
「最悪だなおまえどこのおやじだ」
「おや、つれないことを言いますね」
「当たり前だ」
「でもあなただって、今日は少し身体がつらそうですよ」
つまらない軽口で話の矛先をうやむやにして、憤慨したりなだめたり、照れたり嬉しくなったりやはり笑いあったりして、僕たちは涼宮さんから集合の声がかかるまで、ふたりでたわいのない話をした。
永遠にこの八月がつづくといい。何度記憶を消されても、僕はしょうこりもなく彼に惹かれてしまうだろう。そこから何かが始まる確率がどれほどのものなのかわからない。何も起こらない確率のほうがずっと高いに違いない。
それでも、それでも。
彼のそばにいられるこんな時間を僕は切なく愛おしむ。
一匹の上がりもなく、そのためかえって身軽に川辺をあとにするときには、ずいぶん頭上に雲が出ていた。ここしばらくというもの、からからに乾いた陽気だったから、陽射しが軽減されるのはありがたい。
その鈍い色をした空を見上げ、すっかり小学生の男の子みたいに真っ黒に日焼けしてしまった彼が、「明日は雨だな」とぽつりと言った。
> 08/26
[20070825]