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Your Eyes Only

 ――なぜ彼はあんな目で僕のことを見るのだろう。


 こちらです、といって案内した僕のマンションを、「彼」はなんとも薄暗く、途方に暮れた顔つきで見上げた。そこそこに設備の整った、まだ新しい建物だった。五月にここへ越してきたときには両親が一緒だった。広々とした3LDKを借りて家族三人で住んでいたのだが、ほんの一月ほど前に父の再びの転勤が決まり、今度はなんと場所が海外だったため、僕は一緒に行くのをやめた。そんなわけで今僕は、その家族用の広大な空間をひとりで占有している。
「ここ、誰が借りてんだ?」
「変なことを訊きますね」
 意図の掴めない質問に思わず僕は不審な目を彼に向けた。
「借りているのは僕の両親です。事情があって今は一緒に住んではいませんが。……こんな答えで満足ですか」
「……両親、いるんだな」
「当然でしょう」
 馬鹿にされているのかと思って冷たく言い捨てたが、よく考えてみれば彼の知る古泉一樹は僕とは違う。住む場所ひとつをとっても何か特殊な事情のもとに決められているのかもしれない。
 あくまで彼の言うことを信じるならの話だが。
 これ以上、夜の路上で要領を得ない会話をすることにうんざりとして、僕は先に立ってマンションのエントランスに入った。彼はおとなしくついてきた。エレベータに一緒に乗り込み、上の階へと昇った。
 玄関の扉を開けて部屋の中へと案内すると、どうしてか彼は入り口のところで立ちすくんだ。室内のどこかに彼を脅かすようなものがあるのだろうか。しかし僕の目にそこはありふれたリビングにすぎず、決して美しく片づいているとは言えないが、荒れ果てていると言うほどでもない。
「どうしました」
 苛立って僕は彼の腕を引いた。瞬間その身体がこわばるのを感じたが、彼は抵抗しようとはせず、引かれるままに部屋へと足を踏み入れた。
「すまん」と小さく謝る声には彼の強い自制心が表れていて、僕はまたわけのわからない苛立ちを覚えた。
 彼はほんの一時間ほど前まではすっかり茫然自失の態で、話しかけられたことにもろくに返事のできない状態だった。
 それだから僕が彼を預かることになったのだった。彼はあまりに衝撃を受けすぎていて、ひとりで自宅に帰らせるのが心配だった。僕ではなく、涼宮さんが心配をした。僕はその場にいた彼以外に唯一の男子であり、ほかに選択肢などはなかった。
 ずいぶん早く立ち直ってしまえるものだ。所詮はその程度の思いだったんじゃないか。
 意地悪くもそう考えてみたが、それが事実でないことはわかっていた。彼は立ち直ってなどいない。必死で平静さを保とうとしているだけだ。泣き喚いても、どうしても、彼にはこの現状を変えることはできないから。
 彼は世界のすべてを失ったのだ。
 彼の言うことがすべて本当なのだとしたら、そういうことになる。その日夕刻、下校途中の僕と涼宮さんの前に突然現れて、奇想天外なことをまくしたてた彼のことを涼宮さんはすっかり面白がってしまった。その足で三人で北高まで行き、さらにひとりの上級生を拉致して文芸部の部室とやらに押しかけた。
 部屋にはもうひとりの少女がいて、その場の人数は五人になった。
 そのときだ。誰も手をふれていないのに、旧式のディスプレイがふいに起動した。人の目が追いかけることを計算したスピードで次々と文字が表示される。
 それだけでも十分ふしぎなできごとだったが、彼にほとんど動じた様子がないのがまた少しふしぎだった。緊急脱出プログラム。画面上に表示されたその不穏な文字を、彼の肩越しに僕も確かにこの目で見た。
 彼が悩んでいたのはそう長い時間ではなかった。彼の指はエンターキーを押した。それはプログラムの発動を意味した。
 何かが起こるはずだったのだ。
 それくらいは僕にもわかる。あれがもしも誰かの仕組んだ手のこんだ悪戯だったとしても、彼が僕たちを騙していたのだとしても、あのときあそこで何かが起こらなければおかしかった。
 それなのに何も、何ひとつ変わったことは起きなかった。
 室内は重い沈黙に包まれ、緊張感が胸に痛いほどだった。
 本当に何も起こらないのだとわかって彼が床にへたりこむまでに、いったい何分を必要としただろう。
「嘘だろ……」
 茫然としながらも彼はいつまでもディスプレイを見つめていた。そこに表示されていた文字はいつのまにかすべて消えうせていた。真っ暗な画面の上に白いカーソルがひとつだけ点滅していた。
 いかなる理由によるものかは知れないが、緊急脱出プログラムは失敗した、のだろう。
「なによ、どうなってるのよ、ちゃんと説明しなさいよジョン!」
 涼宮さんが焦れて怒りはじめても、彼はほとんど無反応だった。あまりに彼が虚脱し切ってしまっていたので、涼宮さんもついにはあきらめ、追及は明日以降にすることにした。というより本当は彼の心配をしたのだろう。涼宮さんはああ見えて心のやさしい人だ。自分の目の前でうちのめされて弱り果ててしまっている人間を放っておくことなんてできない。
 僕はあいにくその種のやさしさはまるで持ち合わせていないのだったが、涼宮さんに頼まれてしまっては嫌とは言えない。
 それと、そのほかにもうひとつ。見ず知らずの、それも頭がおかしいのかもしれない人間を、家に上げてもいいと考えたことには理由があった。
 夕刻、彼と初めて会ったときから気になっていた。彼の僕を見る視線、そこに何か言葉では説明の難しい色がある。涼宮さんに向けるものとは少し異なる、微妙な葛藤を孕んだ何か。
 その視線は決して重いものではなく、ためらいがちにふれては離れていく。なのに僕はどうしてだろうか、ひどくそれが気にかかり、胸の奥が理由もわからず騒ぎはじめるのを感じた。
 なぜ彼はあんな目で僕のことを見るのだろう。

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[20070808]