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Your Eyes Only

 居心地悪そうにしている彼をとりあえずローテーブルの前に座らせ、身体も冷え切っているだろうからと熱いコーヒーを出した。こんなに親切にしてやる必要はどこにもないのだが、あまり粗雑に扱って涼宮さんに妙な告げ口をされても困るし、それに魂が抜けたようになっている彼に冷たくするのはさすがの僕でも気が引けた。
 入ったなりは肌寒かったリビングは、エアコンと床暖房の二重の効果ですぐにあたたまった。カップにひとくち口をつけたきり、両手で抱えこんで深い物思いに沈んでしまった彼のむかいに僕は座った。
 沈黙の重さに耐えられずにリモコンでテレビをつけると、面白くもないバラエティをやっていた。突然部屋に響き渡ったそらぞらしい笑い声は、よけいに場の空気を冷え冷えとさせた。
 音に反応して顔を上げた彼と目が合った。ところが彼はすぐにその目をそらしてしまい、僕はまた得体の知れない苛立ちに襲われることになった。
「ご自宅に連絡を入れなくていいのですか」
 つけたばかりのテレビを消して、僕は冷静に尋ねた。彼は言われて初めて思いついたという顔で腕時計に目を走らせた。時間はまだ八時にもなっていない。しかし平均的な家庭ではすでに夕食の時間はすぎているだろう。
「すまん、ちょっと」
 彼はズボンのポケットに手を入れながら立ち上がった。携帯を取り出しながら廊下へと向かう。扉の陰で立ち止まり、短縮ボタンひとつで電話をかけた。
 一応気をつかって離れたのだろうが、ほかに物音のない部屋のことで、その声も話している内容もはっきりと聞き取れた。
 ……ああ俺。ごめん、今日の晩飯いらないから。古泉の……友達のとこに泊まる。…うん。明日には帰る。
 用件のみの短い電話だった。それを済ますと彼はのっそりとリビングに戻ってきて、さきほどまでと同じ場所にぽてんと座った。
「あなたは僕のところにしばしば泊まりにきたことがあるのですか」
 僕のふいの質問に彼はぎょっとした顔をした。僕は容赦なく指摘してやった。
「あなたはあまりにも自然に僕の名前を出した。家人にそれで通じるとわかっている証拠でしょう」
「……SOS団に男はふたりしかいなかったからな」
「女性には話せないような積もる話があったとでも?」
「まあそうだ」
 それだけを答えると彼はまた沈黙し、僕は僕で話の接ぎ穂を見失い、黙り込んだ。彼に渡したカップのなかのコーヒーはほとんど減らずに冷めている。自分のために用意したそれも、テーブルの上に置いたきりすっかり意識から消え去っていた。
 落ち着かない。自分の家だというのにまるでくつろぐことができない。どうしてこんな親しくもない他人を一晩とはいえ預かることに同意してしまったんだろう。
「夕食、まだでしょう。あいにく僕はこういうときに、人をもてなすことができるような料理の腕は持ち合わせておりません。宅配のピザでもとるか、近くのコンビニに買いに行くしかありませんが、どうします」
 なんとか時間を日常の流れに戻したくて、思いついた中で一番さしせまった必要のある話題を口にした。彼は意外にも顔をしかめて正面から僕を見た。
「おまえそんなもんばっか食ってて身体にいいわけないだろう。毎日とは言わんが少しは自炊するよう心がけろ」
 実に真っ当な説教だったが、こんな場面で聞かされることになるとは思ってもみなかったので、僕は一瞬ぽかんとしてしまった。
「……そうですね。気をつけます」
「仕方なく外食するにしてもな、ファミレスなんかじゃ塩分が高すぎる。おまえの柄には合わんだろうが、まだしも定食屋みたいなところのほうが」
「あの」
 延々とつづきそうな彼の言葉を僕は途中で遮った。
「それで、とりあえず今はどうしましょうか」
 彼はまじまじと僕の顔を見て、それから急に己の行動が恥ずかしくなったらしい。わざと作ったようなつっけんどんな口調で答えた。
「正直腹は空いてない。だがほかに買わなきゃならないものもあるからな、コンビニがいいだろう」
 それから僕たちふたりはつれだってコンビニへ行き、買い物をして、また一緒にマンションの部屋まで帰ってきた。ごく普通の友達同士みたいな顔をして。
 ひとつ気づいたことがある。彼は路上に出たときに、僕が教えるのを待たずに最寄りのコンビニへ向かって歩き出した。彼にはこのあたりの土地鑑がある。加えてコンビニの店内ではどこに何の棚があるのかを把握しているようだった。いくらどこの店舗も似かよった造りをしているとはいえ、確信を持ったあの足取りは見間違えようがない。彼がこのコンビニを訪れるのはおそらくこれが初めてではない。
 さあ、これは考えどころだ。
「あなたの家はこの付近にある、わけはないですよね?」
 リビングのテーブルに買ってきた食料を並べ、いざ食事を始めようとした瞬間に、僕はその口火を切った。
 彼は手に焼き鮭のおにぎりを持ったまま、怪訝な面持ちで僕を見つめた。
「最寄り駅は一緒だから遠くはない。だが駅とは反対方向だ。なんでそんなことを訊く」
「あなたの態度から推察したまでですよ」
 僕は微笑み、自前の推理を披露した。彼はそれを聞きながら次第に苦い顔つきになり、やがて深くため息をついた。
「前に話しただろう。俺の知ってる古泉一樹は、『機関』と呼ばれる組織に属している。むこうの世界であいつが暮らしていたのは、その機関が用意した建物だ。ここと同じマンションの、同じ部屋だったよ。置いてある家具までそっくりだ。散らかし方もな。そんなとこまで共通してる必要ないのにな」
「なるほど、あなたの言を信じるならば、あなたが事前に僕の身辺を探っていたストーカーであるという可能性は排除できそうですね」
「なんだそれは。どうして俺がおまえのストーカーなぞせにゃならん」
「さあ、それは僕にはわかりませんが、少なくともあなたが夕方からこっち主張しつづけている荒唐無稽な話よりは、現実味があるとは思いませんか」
「……疑ってるのか」
「さて、どうでしょう。いくらかふしぎなことはありましたが、すべてを信じることができるほどの証拠も見せられてはいないといったところでしょうか」
 口に出してはそう言ったが、実のところ僕は彼の話をかなりの部分で信じはじめていた。まだ数時間のつきあいでしかないが、彼の行動や主張は首尾一貫しており、乱れがない。あまり嘘のうまそうな人柄ではないというのも見ていればわかる。
 つまり可能性としては、彼の話していることはすべてが事実であるか、彼がそうと信じ込んでいるだけの空想上のできごとであるかのどちらかだ。後者の場合、彼は正真正銘のパラノイアだということになってしまうが。
 彼は暗い虚無的な目つきをして黙った。彼にはもはや、彼の主張を裏づけるだけの証拠を提出することはできないだろう。ここは彼のもといた世界とは違う。彼の唯一の脱出の機会は失われたのだ。
 少し、僕は残酷な気持ちになった。あまりに彼が悄然とした様子でいるからだ。彼には悲しい顔は似あわない。しかし、彼は思い知るべきだ。
「夕方、涼宮さんと一緒に入った喫茶店で、僕の話した仮説を覚えていますか」
 いくらか唐突な僕の言葉に彼はわずかに眉をひそめた。
「……ああ」
「あなたの陥った状況を説明するのに考えられる理論はふたとおり、パラレルワールド移動か、時空改変か。このうちもしも時空改変のほうが正解だった場合、あなたはあのときエンターキーを押したことで、今ここにいる僕や涼宮さんや、あのふたりの北高の女性たちを含めた、この世界を一瞬のうちに消滅させていた可能性がある。あなたは一度でもそのことを考えたことがありましたか」
 彼が焦がれる、彼本来の世界にいる僕たちと、今ここにいる僕たちと、そんなに何が違うというのか。しかし彼はもとの世界を選んだ。彼にとってこの僕はいらないものなのだ。
 彼はあからさまにショックを受けた顔をした。見ていて可哀想なほどだった。
「考えて……なかった」
「あなたはいいでしょう。どちらの場合であっても、あなたはここから無事に逃げ出すことができる。あなたひとりがね。お気楽なものです」
 おかしなものだ。冷淡に投げつける僕の言葉は、なぜかひどく八つ当たりめいていた。僕の胸でずっとくすぶっている苛立ちは、こんなあたりから発していたのかもしれない。彼にいらないと思われたくらいのことを、どうして僕は腹立たしく思わなければならないのだろう。
 彼はすっかり落ち込んでしまった。彼には僕にそうたやすく謝ることもできないだろう。彼は彼の信じたことをやったにすぎない。僕だって本当は彼が悪いとは思っていない。
 ただでさえ気落ちしていた彼に追い打ちをかけてしまった。それがわかっていただけに、後味の悪さも相当だった。それからはほとんど会話もないまま食事を終え、彼が買ってきたものの大半を残したことを気にしながらもシャワーを勧め、リビングに布団を敷いて彼を寝かせた。
 僕は僕のベッドで寝たから、夜中の彼がどんな様子だったのかを知らない。
 今頃ひそかに泣いていたりはしないだろうか。そんな想像ばかりが胸の奥で重く凝り、その晩はあまりよく眠れなかった。
 翌朝の彼は少なくともぱっと見たところは落ち着いていた。高校にも普通に行くという。その強靭な精神力には素直に感心した。
 とりあえず今日の放課後にでも、また涼宮さんと一緒に話をしようということになった。互いの携帯のアドレスとナンバーを交換し、同じ時間に部屋を出た。
「あなたのことをなんと呼べばいいですか」
 それを尋ねたのはエレベータの中でのことだ。
「え?」
「ジョン・スミスではいくらなんでも怪しすぎるでしょう。ニックネームとしてならジョンというのもありえなくはないですが、だったらいっそ、キョン、とかいう通称を、僕も使ったほうがいいでしょうか」
 彼はなぜか盛大に顔をしかめた。
「よせ気色悪い」
 本気で悪寒を感じているような声でそう言うと、彼はほんの小さな声でつけ足した。
「おまえはそんな名前で俺を呼ばなかった」
 それは僕じゃない。むこうの世界の古泉一樹だ。
 突然こみあげてきた胸苦しい気持ちに僕は言葉を失った。思わず心臓の上に手を押し当てて、そこに本物の傷口がないことを確かめた。
 痛い、痛いと心臓が叫んでいる。これくらいのことで。こんなどうでもいいようなことで。
 しかし僕は結局何も言うことができず、私鉄の駅前で彼と別れ、ただその肩を落とした背中を見送った。

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[20070811]