TEXT

Your Eyes Only 11

 シャリシャリと涼しい音がしていた。ときどき途切れはするが、すぐにまた復活する。うるさくはないが気になる音だ。
 なんの音だ?
 俺は薄く眼を開いた。見慣れない天井がそこにあった。のっぺりと白い。空気になんだか妙な匂いがある。消毒液、のような。
「おや?」
 ぼんやりと薄ぼけていた俺の意識は、その声を耳にした瞬間に、急に明確な形を取り戻した。
「やっとお目覚めですか。ずいぶん深い眠りだったようですね」
 慌てて首をねじって声のした方向へ目をやった。なぜか身体が重かった。見覚えのないベッドに寝かされている。少なくともここは自分の部屋ではない。
 そのベッドの脇に椅子を寄せ、北高の制服を着た男が優雅な手つきでリンゴを剥いている
 古泉。
「おはようございますと言うべきでしょうか。夕方ですけど」
 とっさに声が出なかった。ここはどこだとか、なぜ俺はベッドに寝かされているんだとか、訊きたいことは山ほどあったが、どれも喉の奥で形にならずに絡まっている。
 ひどくたくさんのことがあった気がした。
 ここで目が覚める直前までの記憶と今とがうまくつながらない。何がどうしてこうなったのかはわからないが、俺はもといた世界へ戻ってきたのに違いない。古泉が見慣れた深青緑のブレザーを着ている。俺のよく知る表情をして俺を見る。
「……ぼんやりなさっておられますが、僕が誰だかわかりますか?」
「古泉」
 名前を呼ぶと、ずいぶんかすれた声が出た。もう何日も声を出していなかったみたいに。
「……古泉」
 俺の喉はほかの言葉を忘れてしまっている。胸が詰まって、まともな言葉を紡げない。
 古泉はそんな俺の様子に異変を感じ取ったのか、怪訝な表情をしてリンゴと果物ナイフをサイドテーブルに置いた。タオルで軽く手をぬぐうと立ち上がる。
「本当にどうなさいました」
 やさしい声が近づいてくる。端整な顔が本気で俺を心配している表情になり、わずかに歪む。ベッドに横たわる俺の上にかがみこむように身を寄せ、手をのばして俺の額にそっとふれる。
 これは俺の古泉だ。
 俺はすぐ手の届く位置にあった古泉の制服のタイを掴み、思い切り引いた。
「……!」
 思いがけなかったのだろう、古泉は目を見開いて、いくらか抗った。まだ表面をふれあわせただけだった唇は、古泉のひそめられた声によって無理やり距離を作られた。
「どうしたんですか急に。だめです、すぐそこに、す……」
 最後まで言わせなかった。強引に舌をねじ込み、絡めると、俺の身体を気遣ったのか、古泉も無理にそれを引き離そうとせず、やがてはキスに応えてくれた。
 夢中になる。次第に熱に塗り込められて朦朧とかすんでいく意識の中で、しかし俺は胸の中に静かに冷えている部分があることに気づいていた。じわじわと痛むそれは、きっと、もう二度と会うことのないもうひとりの古泉に持っていかれた心の欠落だった。
 俺がこの世界へ戻ってくることで、あの世界がどうなってしまったのか、俺には知る方法がない。本当に消えてしまったのか、この世界に再構成されてしまったのか、それとも今もまだあの状態のままで存続しているのか。
 じわりと目じりに涙がにじむ。それが罪悪感から来るものか、それとも未練から来るものなのか俺にはわからない。
 どんな形でもいい。できることなら、みな幸せでいてほしい。
 身勝手極まりないそんな願いを抱きながら、俺はあたたかな古泉の身体に腕を回した。




エピローグ

 これといって何かが起きたという気配はなかった。十分ほどもその場に佇んでから、僕はゆっくりと薄暗い階段を上った。
 この場所を訪れるのはこれで二度目だが、前のときは慌しすぎて周囲を見ている余裕がなかった。火の気のない古びた建物は冷え切っていたが、どこか懐かしさを感じさせた。オレンジ色の夕暮れの光を踏みしめながら、文芸部というプレートの出た一室の前まで歩いた。
 室内からは物音ひとつしない。扉に手をかけると鍵はかかっていなかった。僕はそれを押し開け、がらんとした部屋に入った。
 そこは完全に無人だった。旧式のパソコンのディスプレイも沈黙している。ここに少し前まで人がいたことなど、『彼』が存在していたことなど、どこにも痕跡ひとつ残っていない。
 彼は無事に自分の世界へ戻れただろうか。きちんと彼の世界の僕に出会えただろうか。
 少しばかり胸が痛んだが、喪失感は思ったよりも大きくはなかった。彼がこの世界の人ではないことを、僕は自分で思っているよりちゃんとわきまえていたらしかった。
 それに彼は消えてしまったが、『彼』はまだこの世界に存在している。
 ひとりきりの部屋を見回しながら、僕はもう一度ここへ来ることがあるだろうかと考えた。
 あるのではないかという気がした。
 僕は淡く微笑み、その場をあとにした。
 思えば、彼と出会ってからまだ三日にしかなっていない。そんな短い時間のあいだにずいぶんいろいろなことがあったと思う。特に僕自身の気持ちの変化は自分でもとまどうくらいに大きかった。
 奇妙すぎるほどに奇妙な出会いではあったが、それは初めから決まっていたことなのではないかと感じた。涼宮さんにふしぎな力がなくても、同じ学校に通ってさえいなくても、僕らはなんらかのきっかけがあれば惹きあい、集うことになる。僕と彼と涼宮さんと長門さんと朝比奈さん。その五人を合わせてSOS団と言うのだったか。
 彼の話していたとおりの形にはならないかもしれないが、この世界で再びその集まりを復活させることは可能であるに違いない。
 まずは手始めに、僕は『彼』に会いに行こうと思う。
 この世界の本来の彼。僕のことも涼宮さんのことも知らない彼。だけど僕は彼を知っている。どこへ行けば会えるのかもわかる。
 単純に、北高の正門あたりで待ち伏せしてみるのがいいだろう。僕は彼に最初にこう話しかけてみるつもりだ。

「あなたはそろそろ僕に、本名を教えてくれてもいい頃だと思いますよ」

10< END

[20071205]